・・・ すごい顔色になって、肩ごしに灰皿をつかんでなげようとする。津田と二人で、それを止めて外へでると、小野はこんどは三吉にくってかかる。――な、青井さ、きみァボルな? え、何故だまっとるな?――。それからとつぜん、三吉の腕にもたれてシクシク・・・ 徳永直 「白い道」
・・・ もうそろそろ夜風の寒くなりかけた頃の晦日であったが、日が暮れたばかりのせいか、格子戸内の土間には客は一人もいず、鉄の棒で境をした畳の上には、いつも見馴れた三十前後の顔色のわるい病身らしい番頭が小僧に衣類をたたませていた。われわれは一先・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・三日目の朝、われと隠士の眠覚めて、病む人の顔色の、今朝如何あらんと臥所を窺えば――在らず。剣の先にて古壁に刻み残せる句には罪はわれを追い、われは罪を追うとある」「逃れしか」と父は聞き、「いずこへ」と妹はきく。「いずこと知らば尋ぬる便・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・平生あんなに快濶な男が、ろくに口も利き得ないで、お前さんの顔色ばかり見ていて、ここにも居得ないくらいだ」「本統にそうなのなら、兄さんに心配させないで、直接に私によく話してくれるがいいじゃアありませんか」「いや、話したろう。幾たびも話・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・にて安心と思いの外、この養子が羽翼既に成りて社会に頭角を顕すと同時に、漸く養家の窮窟なるを厭うて離縁復籍を申出し、甚だしきは既婚の妻をも振棄てゝ実家に帰るか、又は独立して随意に第二の妻を娶り、意気揚々顔色酒蛙々々として恥じざる者あり。不義理・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・みんなも顔色を変えて叫んだのです。 白い火山灰層のひとところが、平らに水で剥がされて、浅い幅の広い谷のようになっていましたが、その底に二つずつ蹄の痕のある大さ五寸ばかりの足あとが、幾つか続いたりぐるっとまわったり、大きいのや小さいのや、・・・ 宮沢賢治 「イギリス海岸」
・・・尨大な数の不幸な人々と、顔色のわるい、骨格のよわいその子供たちとが、自分たちの運命をきりひらくために勇奮心をふるい起そうともしないで、波止場の波に浮ぶ藁しべのようにくさりつつ生きている光景は、どんな眠たい精神の目も、さまさせずにおかないもの・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第八巻)」
・・・秀麿は別に病気はないのに、元気がなくなって、顔色が蒼く、目が異様に赫いて、これまでも多く人に交際をしない男が、一層社交に遠ざかって来た。五条家では、奥さんを始として、ひどく心配して、医者に見せようとしたが、「わたくしは病気なんぞはありません・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・ 二人とも何やら浮かぬ顔色で今までの談話が途切れたような体であッたが、しばらくして老女はきッと思いついた体で傍の匕首を手に取り上げ、「忍藻、和女の物思いも道理じゃが……この母とていとう心にはかかるが……さりとて、こやそのように、忍藻・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・ 妻は、今はもう顔色に何の返事も浮べなかった。「お前は疲れているらしいね。ちょっと、一眠りしたらどうだ。」「あたし、さっき、あなたを呼んだの。」と妻はいった。「ああ、あれはお前だったのか。俺はバルコオンで、へんに胸がおかしく・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫