・・・「その向の方なら、大概私が顔見知りよ。……いいえ、盗賊や風俗の方ばかりじゃありません。」「いや、大きに――それじゃ違ったろう。……安心した。――時に……実は椎の樹を通ってもらおうと思ったが、お藻代さんの話のいまだ。今度にしようか。」・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・とその後妻が、(のう、ご親類の、ご新姐――悉しくはなくても、向う前だから、様子は知ってる、行来、出入りに、顔見知りだから、声を掛けて、(いつ見ても、好容色と空笑いをやったとお思い、とじろりと二人を見ると、お京さん、御母堂だよ、いいかい。怪我・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・旅馴れぬ旅行者のように、早く駅前へ出ようとうろうろする許りである。顔見知りもいない。 よしんば知人に会うても、彼もまたキョロキョロと旅行者のような眼をしているのである。 いわば、勝手の違う感じだ。何か大阪に見はなされた感じなのだ。追・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・大穴の時は配当を取りに来る人もまばらで、すぐ顔見知りになる。やあ、よく取りますね、この次は何ですかと、寺田はその気もなくお世辞で訊いた。すると、男はもう馬券を買っていて、二つに畳んでいたのを開いて見せた。1だった。寺田はどきんとして、なにか・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・ 二階借りするにも前払いでは困ると、いろいろ探しているうちに、おきんの所へ出はいりして顔見知りの呉服屋の担ぎ屋が「家の二階空いてまんね、蝶子さんのことでっさかい部屋代はいつでもよろしおま」と言うたのをこれ倖いに、飛田大門前通りの路地裏に・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・いつか、ブラゴウエシチェンスクにも、顔見知りが多くなっていた。 黒竜江にはところどころ結氷を破って、底から上ってくる河水を溜め、荷馬車を引く、咽頭が乾いた馬に水をのませるのを商売とする支那人が現れた。いくら渇を覚えても、氷塊を破って馬に・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・かねて、顔見知りの間柄である。ふと、三木が、東北の山宿のことに就いて、口を滑らせた。さちよの肉体を、ちらと語った。それから、やい、さちよはどこにいる。知らない。嘘つけ、貴様がかくした。よせやい、見っともねえぞ、意馬心猿。それから、よし、腕ず・・・ 太宰治 「火の鳥」
出典:青空文庫