・・・ 誰もまだそこへ来ない何秒かの間、慎太郎は大声に名を呼びながら、もう息の絶えた母の顔に、食い入るような眼を注いでいた。 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・陳は咄嗟に床へ這うと、ノッブの下にある鍵穴から、食い入るような視線を室内へ送った。 その刹那に陳の眼の前には、永久に呪わしい光景が開けた。………… 横浜。 書記の今西は内隠しへ、房子の写真を還してしまうと、静に長椅子から立ち・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・が、いくら身悶えをしても、体中にかかった縄目は、一層ひしひしと食い入るだけです。わたしは思わず夫の側へ、転ぶように走り寄りました。いえ、走り寄ろうとしたのです。しかし男は咄嗟の間に、わたしをそこへ蹴倒しました。ちょうどその途端です。わたしは・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・学生時代にボートの選手をしていたひとは、五十六十になっても、ボートを見ると、なつかしいという気持よりは、ぞっとするものらしいが、しかし、また、それこそ我知らず、食い入るように見つめているもののようである。 早稲田界隈。 下宿生活。・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・畢竟偏狭ぼうしつは執着の半面であるとすれば、これは芸術と科学の愛がいかに人の心の奥底に深く食い入る性質のものであるかを示すかもしれない。ちょっと考えると、少なくも科学者のほうは、学問の性質上きわめて博愛的で公平なものでありそうなのに事実は必・・・ 寺田寅彦 「科学者と芸術家」
・・・その頃からウィリアムは、己れを己れの中へ引き入るる様に、内へ内へと深く食い入る気色であった。花も春も余所に見て、只心の中に貯えたる何者かを使い尽すまではどうあっても外界に気を転ぜぬ様に見受けられた。武士の命は女と酒と軍さである。吾思う人の為・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ 女中は湯帷子に襷を肉に食い入るように掛けて、戸を一枚一枚戸袋に繰り入れている。額には汗がにじんで、それに乱れた髪の毛がこびり附いている。「ははあ、きょうも運動すると暑くなる日だな」と思う。木村の借家から電車の停留場まで七八町ある。・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・――私には物に食い入るかなりに鋭い眼がある。一つの人格、一つの世相、一つの戦い、その秘められた核を私は一本の針で突き刺して見せる。その証拠は私の製作が示すだろう。 そして私は製作する。できたものをたとえばストリンドベルヒの作に比べてみる・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
・・・まず下に食い入ることを努めよ。四 早年にして成長のとまる人がある。根をおろそかにしたからである。 四十に近づいて急に美しい花を開き豊かな果実を結ぶ人がある。下に食い入る事に没頭していたからである。 私の知人にも理解の・・・ 和辻哲郎 「樹の根」
・・・私はただ血肉に食い入る体験をさしているのです。これはやがて人格の教養になります。そうして、その人が「真にあるはずの所へ」その人を連れて行きます。その人の生活のテエマをハッキリと現われさせ、その生活全体を一つの交響楽に仕上げて行きます。すべて・・・ 和辻哲郎 「すべての芽を培え」
出典:青空文庫