・・・清三が帰ると園子は二階から走り下りてきて食卓を拡げた。「じいさん、ごぜんじゃでえ。」ばあさんは四畳半へ来て囁いた。「ごぜんなんておかしい。ごはんと云いなされ!」清三はその言葉をきゝつけて、妻のいないところで云いきかした。「そうけ・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・私はこの隣家のお婆さんの孫にあたる子息や、森さんなぞと一緒に同じ食卓についていて、日ごろはめったにやらない酒をすこしばかりやった。太郎はまたこの新築した二階の部屋で初めての客をするという顔つきで、冷めた徳利を集めたり、それを熱燗に取り替えて・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・熊吉が来て、姉弟三人一緒に燈火の映る食卓を囲んだ時になっても、おげんの昂奮はまだ続いていた。「今日は女同士の芝居があってね、お前の留守に大分面白かったよ」 と直次は姉を前に置いて、熊吉にその日の出来事を話して無造作に笑った。そこへお・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ いつか郊外のおそばやで、ざるそば待っている間に、食卓の上の古いグラフを開いて見て、そのなかに大震災の写真があった。一面の焼野原、市松の浴衣着た女が、たったひとり、疲れてしゃがんでいた。私は、胸が焼き焦げるほどにそのみじめな女を恋した。・・・ 太宰治 「ア、秋」
・・・店の食卓も、腰掛も、昔のままだったけれど、店の隅に電気蓄音機があったり、壁には映画女優の、下品な大きい似顔絵が貼られてあったり、下等に荒んだ感じが濃いのであります。せめて様々の料理を取寄せ、食卓を賑かにして、このどうにもならぬ陰鬱の気配を取・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・細君は食卓に大きな笊をのせて青い莢隠元をむしっていた。 お茶を一杯よばれてから一緒に出かけて行った。とある町の小さな薬屋の店へ這入った。店には頭の禿げた肥った主人が居て、B君と二言三言話すと、私の方を見て、何か云ったがそれはオランダ語で・・・ 寺田寅彦 「異郷」
・・・そうして表面平静な挙動の奥にあばれている心のあらしを、隣室から響くピアノの単純なようで込み入った抑揚が細かに描いて行く。そうして食卓の上に刻まれた彼女自身の名前を見いだした最後の心機の転回に導かれるまでこのピアノ曲はあるいは強くあるいは弱く・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・この妾宅には珍々先生一流の趣味によって、食事の折には一切、新時代の料理屋または小待合の座敷を聯想させるような、上等ならば紫檀、安ものならばニス塗の食卓を用いる事を許さないので、長火鉢の向うへ持出されるのは、古びて剥げてはいれど、やや大形の猫・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・そして真中に食卓を据えた。長火鉢は台所へ運んで、お袋と姉とは台所へ退却した。そして境界に葭戸を立てた。二畳に阿久がいて、お銚子だの煮物だのを運んだ。さて当日の模様をざっと書いて見ると、酒の良いのを二升、そら豆の塩茄に胡瓜の香物を酒の肴に、干・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・先生の書斎にどんな書物がどんなに並んでいたかを知らずに過ぎた。 花やかな金文字や赤や青の背表紙が余の眼を刺激しなかったばかりではない。純潔な白色でさえついに余の眼には触れずに済んだ。先生の食卓には常の欧洲人が必要品とまで認めている白布が・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生」
出典:青空文庫