・・・家が狭いためか、または余を別室に導く手数を省いたためか、先生は余を自分の食卓の前に坐らして、君はもう飯を食ったかと聞かれた。先生はその時卵のフライを食っていた。なるほど西洋人というものはこんなものを朝食うのかと思って、余はひたすら食事の進行・・・ 夏目漱石 「博士問題とマードック先生と余」
・・・ で、家族のものは、泣きながら食卓の前に坐らされている、腹の空いた子供のような気持を、抱かない訳には行かなかった。 陰気であった。が、何だか険悪であった。線香をいぶすのにも、お経を読むのにも早過ぎた。第一、室が広すぎた。余り片附きす・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・ ある日須利耶さまは童子と食卓にお座りなさいました。食品の中に、蜜で煮た二つの鮒がございました。須利耶の奥さまは、一つを須利耶さまの前に置かれ、一つを童子にお与えなされました。(喰童子が申されました。(おいしいのだよ。どれ、箸をお貸・・・ 宮沢賢治 「雁の童子」
・・・ 失踪者の件というのは何のことだろう、決闘の件とでも云うならわかっているし、その決闘なら刃の円くなった食卓ナイフでやったことなのだ、デストゥパーゴが血を出したかどうかもわからない、まあ何かの間違いだろうと思いながら、わたくしは室へ入って・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・ 悌が最も素直に一同の希望を代表して叫び、彼等は喜色満面で食卓についた。ところが、変な顔をして、ふき子が、「これ――海老?」といい出した。「違うよ、こんな海老あるもんか」「海老じゃないぞ」「何だい」 口々の不平を・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
一、今年は珍しく豊年の秋ということで、粉ばかりの食卓にも一すじの明るさがあります。 一、けさも又早い時間にお話をすることになりました。が、この時間の放送に何か理屈っぽい、云ってみれば教養めいたお話をするということがいつ・・・ 宮本百合子 「朝の話」
・・・もうちゃんと食卓がこしらえて、アザレエやロドダンドロンを美しく組み合せた盛花の籠を真中にして、クウウェエルが二つ向き合せておいてある。いま二人くらいははいられよう、六人になったら少し窮屈だろうと思われる、ちょうどよい室である。 渡辺はや・・・ 森鴎外 「普請中」
・・・なんだかエルリングの事は、食卓なんぞで、笑談半分には話されないとでも思うらしく見えた。 食事が済んだ時、それまで公爵夫人ででもあるように、一座の首席を占めていたおばさんが、ただエルリングはもう二十五年ばかりもこの家にいるのだというだけの・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・ 私は妻と子と三人で食卓を囲んでいました。私の心には前の続きでなおさまざまの姿や考えが流れていました。で、自分では気がつきませんでしたが、私はいつも考えにふける時のように人を寄せつけないムズかしい顔をしていたのです。私がそういう顔をして・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
・・・しかしながら因襲的道徳に鋳られし者が習慣性によって壕の埋め草となり蹄の塵となるのは豕が丸焼きにされて食卓に上るのと択ぶところがない。吾人はこの意味なき「忠君」に敬意を表したくない。同じく人としてこの世に実在するならば吾人の霊的出発点は一つで・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫