・・・これも御馳走を喰い過ぎたくても喰い過ぎられなかったおかげかもしれないと思われる。食慾不振のおかげで、御馳走がまずく喰われるという幸運を持合せたのであろう。何が仕合せになるかもしれないのである。 四 半分風邪を引いていると風・・・ 寺田寅彦 「変った話」
・・・そうして目立って食欲が減退するのであった。彼自身にも、それが病的であるという事を自覚しないではなかったが、その自覚はこのような発作を止めるにはなんの役にも立たなかった。そんな時に適当な書物を読めばいいことも知っていたが、発作のはげしい時には・・・ 寺田寅彦 「球根」
・・・これは決して単なる食慾の問題ではない。純な子供の心はこの時に完全に大自然の懐に抱かれてその乳房をしゃぶるのである。 楊梅も国を離れてからは珍しいものの一つになった。高等学校時代に夏期休暇で帰省する頃にはもういつも盛りを過ぎていた。「二、・・・ 寺田寅彦 「郷土的味覚」
・・・しかし不思議なものでこの粗野な玉の食い物に対する趣味はいつとなしに向上して行って、同時にあのあまりに見苦しいほどに強かった食欲もだんだん尋常になって行った。挙動もいくらかは鷹揚らしいところができてきたが、それでも生まれついた無骨さはそう容易・・・ 寺田寅彦 「子猫」
・・・朝起を標準として人の食慾を批判するようなものでしょう。御前は朝寝坊だ、朝寝坊だからむやみに食うのだと判断されては誰も心服するものはない。枡を持ち出して、反物の尺を取ってやるから、さあ持って来いと号令を下したって誰も号令に応ずるものはありませ・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・ 一太は立って境の唐紙をあけた。粗末な長火鉢を前にして坐っている伊藤の細君が、「さ、お鼻薬」と、猫板の上に小皿に盛った黒豆を出してくれた。甘く煮た黒豆! 一太は食慾のこもった眼を皿の豆に吸いよせられながら、膝小僧を喰つけて小さくその・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・家庭の主婦の心労や骨折や或は無智が、職工さんのお弁当の量は多くて質の足りない組合わせを結果して来てもいるだろうし、代用食と云えばうどんで子供は食慾もなくしている始末にもなっていよう。何をたべたか、何がたべたいかという結果として出たところで調・・・ 宮本百合子 「「うどんくい」」
・・・永い眠りから醒まされて、夏の朝夕一しお黒い柱の艶を増すような家の間で、華やかな食慾の競技会がある。稚い恋も行われる。色彩ある生活の背景として、棚の葡萄は大きな美しい葉を房々と縁側近くまで垂らして涼風に揺れた。真夏の夕立の後の虹、これは生活の・・・ 宮本百合子 「毛の指環」
・・・時刻が時刻なのですっかり腹がすき、自分が激しい食慾で弁当をたべているむかい側で清水は何も食べず、煙草をふかしている。そして自分は女房には絶対服従を要求しているが、工合がわるいと云えば直ぐ医者にやるしなどということを尤もらしく云っている。彼の・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・食物は海と山との調味豊かな品々が時に従って華やかな色彩で食慾を増進させた。空気は晴れ渡った空と海と山との三色の緑の色素の中から湧き上った。物音とてはしんしんと耳の痛む静けさと、時には娯楽室からかすかに上るミヌエットと、患者の咳と、花壇の中で・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫