・・・この女が机に凭れて何か考えているところを、後から、そっと行って、紫の帯上げの房になった先を、長く垂らして、頸筋の細いあたりを、上から撫で廻したら、女はものう気に後を向いた。その時女の眉は心持八の字に寄っていた。それで眼尻と口元には笑が萌して・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・希臘風の鼻と、珠を溶いたようにうるわしい目と、真白な頸筋を形づくる曲線のうねりとが少からず余の心を動かした。小供は女を見上げて「鴉が、鴉が」と珍らしそうに云う。それから「鴉が寒むそうだから、麺麭をやりたい」とねだる。女は静かに「あの鴉は何に・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・ 色の青白い、瘠せた、胸の薄い、頭の大きいのと反比例に首筋の小さい、ヒョロヒョロした深谷であった。そのうえ、なんらの事件のない時でさえ彼は、考え込んでばかりいて、影の薄い印象を人に与えていた。だが、彼はベッドに入ると直ぐに眠った。小さな・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・後ろ頭か、首筋に寒気でもするんかい」 私は又、実際、セコンドメイトが、私の眼の前に、眼の横ではいけない、眼の前に、奴のローラー見たいな首筋を見せたら、私の担いでいた行李で、その上に載っかっている、だらしのないマット見たいな、「どあたま」・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・皺だらけの、血にまみれた手で、そこでやかましく、泣き立てている赤ん坊の首筋を掴もうとしても、その手さえ動かなくなるんだ。お前が殺し切れなかった赤ん坊は、ますますお前の廻りで殖えて行くだろう。ますます騒がしく泣き立てるだろう。ハッハッハッハハ・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・ そして、生えぎわの美しい千代の下げた頸筋を苦しそうに見下しながら、いたたまれないように何遍も何遍も、落ちていもしない髪をかきあげた。 千代は、その午後のうちに、来た時通り藤色の包みを一つ持ったきりで彼等の家を去った。彼女が出て行っ・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・ 捲毛のおちている首筋を、よ、よ! と強く動かしつつ呼んでる。男は黙ってイヤイヤしていたが、女があまり云うとベンチのところへきて、低い声で然しきっぱり云った。 ――止めろよ、工合がわるいや。 ――どうして? 下から男を見上げ・・・ 宮本百合子 「三月八日は女の日だ」
・・・ 此の婆が、生れは越後のかなり良い処で片附てからの不幸つづきで、こんな淋しい村に、頼りない生活をして居るのだと云う事をきいて居るので、その荒びた声にも日にやけた頸筋のあたりにも、どことなし、昔の面影が残って居る様で、若し幸運ばかり続・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・ こう言っておいて、弥一右衛門は子供らの面前で切腹して、自分で首筋を左から右へ刺し貫いて死んだ。父の心を測りかねていた五人の子供らは、このとき悲しくはあったが、それと同時にこれまでの不安心な境界を一歩離れて、重荷の一つをおろしたように感・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ 秋三が安次の首筋を持って引き立てると、安次は胸を突き出して、「アッ、アッ。」と苦しそうな声を立てた。「早よ歩けさ。厄介な餓鬼やのう!」「腹へって腹へって、お前、負うてくれんか!」「うす汚い! 手前のようなやつ、負えるかい。・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫