・・・ やがて、自分のを並べ果てて、対手の陣も敷き終る折から、異香ほのぼのとして天上の梅一輪、遠くここに薫るかと、遥に樹の間を洩れ来る気勢。 円形の池を大廻りに、翠の水面に小波立って、二房三房、ゆらゆらと藤の浪、倒に汀に映ると見たのが、次・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・二の烏 はて、下司な奴、同じ事を不思議な花が薫ると言え。三の烏 おお、蘭奢待、蘭奢待。一の烏 鈴ヶ森でも、この薫は、百年目に二三度だったな。二の烏 化鳥が、古い事を云う。三の烏 なぞと少い気でおると見える、はははは。・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・ これで安心して、衝と寄りざまに、斜に向うへ離れる時、いま見たのは、この女の魂だったろう、と思うほど、姿も艶に判然して、薄化粧した香さえ薫る。湯上りの湯のにおいも可懐いまで、ほんのり人肌が、空に来て絡った。 階段を這った薄い霧も、こ・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・春ともなればリラの花も薫るであろう。しかしわが東京、わが生れた孤島の都市は全く滅びて灰となった。郷愁は在るものを思慕する情をいうのである。再び見るべからざるものを見ようとする心は、これを名づけてそも何と言うべき歟。昭和廿一年十月草・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・薫風やともしたてかねつ厳島「風薫る」とは俳句の普通に用いるところなれどしか言いては「薫る」の意強くなりて句を成しがたし。ただ夏の風というくらいの意に用いるものなれば「薫風」とつづけて一種の風の名となすにしかず。けだし蕪村の烱眼は早く・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
出典:青空文庫