・・・「ありゃさっきお絹ちゃんが、持って来た香水を撒いたんだよ。洋ちゃん。何とか云ったね? あの香水は。」「何ですか、――多分床撒き香水とか何んとか云うんでしょう。」 そこへお絹が襖の陰から、そっと病人のような顔を出した。「お父さ・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ ……電燈を消した二階の寝室には、かすかな香水のにおいのする薄暗がりが拡がっている。ただ窓掛けを引かない窓だけが、ぼんやり明るんで見えるのは、月が出ているからに違いない。現にその光を浴びた房子は、独り窓の側に佇みながら、眼の下の松林を眺・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・それからその手巾には「アヤメ香水」と云う香水の匂のしていたことも覚えている。 僕の母は二階の真下の八畳の座敷に横たわっていた。僕は四つ違いの僕の姉と僕の母の枕もとに坐り、二人とも絶えず声を立てて泣いた。殊に誰か僕の後ろで「御臨終御臨終」・・・ 芥川竜之介 「点鬼簿」
・・・色の白い顔がいつもより一層また磨きがかかって、かすかに香水のにおいまでさせている容子では、今夜は格別身じまいに注意を払っているらしい。「御待たせして?」 お君さんは田中君の顔を見上げると、息のはずんでいるような声を出した。「なあ・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・ 突然川柳で折紙つきの、という鼻をひこつかせて、「旦那、まあ、あら、まあ、あら良い香い、何て香水を召したんでございます。フン、」 といい方が仰山なのに、こっちもつい釣込まれて、「どこにも香水なんぞありはしないよ。」「じゃ・・・ 泉鏡花 「縁結び」
・・・ 間を隔てた座敷に、艶やかな影が気勢に映って、香水の薫は、つとはしり下にも薫った。が、寂寞していた。 露路の長屋の赤い燈に、珍しく、大入道やら、五分刈やら、中にも小皿で禿なる影法師が動いて、ひそひそと声の漏れるのが、目を忍び、音を憚・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・たとえば貴重なる香水の薫の一滴の散るように、洗えば洗うほど流せば流すほど香が広がる。……二三度、四五度、繰返すうちに、指にも、手にも、果は指環の緑碧紅黄の珠玉の数にも、言いようのない悪臭が蒸れ掛るように思われたので。……「ええ。」 ・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ 唯今、七彩五色の花御堂に香水を奉仕した、この三十歳の、竜女の、深甚微妙なる聴問には弱った。要品を読誦する程度の智識では、説教も済度も覚束ない。「いずれ、それは……その、如是我聞という処ですがね。と時に、見附を出て、美佐古はいかがで・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・良人沼南と同伴でない時はイツデモ小間使をお伴につれていたが、その頃流行した前髪を切って前額に垂らした束髪で、嬌態を作って桃色の小さいハンケチを揮り揮り香水の香いを四辺に薫じていた。知らないものは芸者でもなし、娘さんでもなし、官員さんの奥様ら・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・そこへ、女のお客さまがあると、へやじゅうは香水の匂いでいっぱいになります。テーブルの上には、カーネーションや、リリーや、らんの花などが盛られて、それらの草花の香気も混じって、なんともいえない、ちょうど南国の花園にいったときのような感じをさせ・・・ 小川未明 「煙突と柳」
出典:青空文庫