・・・その馬がどんな馬であろうと頓着せず、勝負にならぬような駄馬であればあるほど、自虐めいた快感があった。ところが、その日は不思議に1の番号の馬が大穴になった。内枠だから有利だとしたり気にいってみても追っつかぬ位で、さすがの人々も今日は一番がはい・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・ 見たまえ、鍛冶工の前に二頭の駄馬が立っているその黒い影の横のほうで二三人の男が何事をかひそひそと話しあっているのを。鉄蹄の真赤になったのが鉄砧の上に置かれ、火花が夕闇を破って往来の中ほどまで飛んだ。話していた人々がどっと何事をか笑った・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・つなり、水車場を離れて孫屋立ち、一抱えばかりの樫七株八株一列に並びて冬は北の風を防ぎ夏は涼しき陰もてこの屋をおおい、水車場とこの屋との間を家鶏の一群れゆききし、もし五月雨降りつづくころなど、荷物曳ける駄馬、水車場の軒先に立てば黒き水は蹄のわ・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・河は凍って、その上を駄馬に引かれた橇が通っていた。氷に滑べらないように、靴の裏にラシャをはりつけた防寒靴をはき、毛皮の帽子と外套をつけて、彼等は野外へ出て行った。嘴の白い烏が雪の上に集って、何か頻りにつゝいていたりした。 雪が消えると、・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
・・・世故に慣れているというまででなくても善良の老人は人に好い感じを持たせる、こういわれて悪い気はしない。駄馬にも篠の鞭、という格で、少しは心に勇みを添えられる。勿論未熟者という意味のボク釣師と自ら言ったのは謙遜的で、内心に下手釣師と自ら信じてい・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・笠井さんは、流石に少し侘びしく、雨さえぱらぱら降って来て、とっとと町を急ぐのだが、この下諏訪という町は、またなんという陰惨低劣のまちであろう。駄馬が、ちゃんちゃんと頸の鈴ならして震えながら、よろめき歩くのに適した町だ。町はば、せまく、家々の・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・では私、駄馬ののっそり勇気、かれのまことの人となりを語らむ乎。以下、私の述べることは、かれの骨格について也。かならず、かれの小説と、混同すべからず、かれのあの、きめこまやかなる文章と。 シャルル・ルイ・フィリップの友に語った言葉のはしは・・・ 太宰治 「碧眼托鉢」
・・・霧が晴れかかった時に、線路の横の畑の中に一疋の駄馬がしょんぼり立っているのが見えた。その馬のからだ一面から真白な蒸気が仰山に立ち昇っていた。並んで坐っていた連れの男は「コロッサアル、コロッサアル」と呟いていた。私は何となしに笑いたくなって声・・・ 寺田寅彦 「異郷」
・・・昭和通りに二つ並んで建ちかかっている大ビルディングの鉄骨構造をねらったピントの中へ板橋あたりから来たかと思う駄馬が顔を出したり、小さな教会堂の門前へ隣のカフェの開業祝いの花輪飾りが押し立ててあったり、また日本一モダーンなショーウィンドウの前・・・ 寺田寅彦 「カメラをさげて」
・・・ あの痩せ衰え骸骨のようになったロシアの子供等が、往来に――恐らくこれも飢から――斃死した駄馬の周囲に蒼蠅のように群がって、我勝ちに屍肉を奪い合っている写真を見たら、恐らく一目で、反感の鬼や独善的な冷淡さは、影を潜めて仕舞うだろう。到底・・・ 宮本百合子 「アワァビット」
出典:青空文庫