・・・そのへんからは土堤の左右に杉の古木が並木になり、上熊本駅へゆく間道で、男女の逢引の場所として、土地でも知られているところだったが、三吉にはもはやおっくうであった。「あの、深水さんがね、貴方のことを――」 夕闇の底に、かえってくっきり・・・ 徳永直 「白い道」
・・・玩具のように小さく見える列車が突然駐って、また走り出すのと、そのあたりの人家の殊に込み合っている様子とで、それは中山の駅であろうと思われた。 水はこの辺に至って、また少しく曲りやや南らしい方向へと流れて行く。今まで掛けてある橋は三、四カ・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・連が三四人ある。駅夫が入口をしめて「リフト」の縄をウンと引くと「リフト」がグーッとさがる、それで地面の下へ抜け出すという趣向さ。せり上る時はセビロの仁木弾正だね。穴の中は電気灯であかるい。汽車は五分ごとに出る。今日はすいている、善按排だ。隣・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・いつも見慣れた途中の駅や風景やが、すっかり珍しく変ってしまって、記憶の一片さえも浮ばないほど、全く別のちがった世界に見えるだろう。だが最後に到着し、いつものプラットホームに降りた時、始めて諸君は夢から醒め、現実の正しい方位を認識する。そして・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・箱根駅にて午餉したたむるに皿の上に尺にも近かるべき魚一尾あり。主人誇りがにこは湖水の産にしてここの名物なりという。名を問えば赤腹となん答えける。面白き秋の名なりけり。これより山を下るに見渡す限り皆薄なり。箱根の関はいずちなりけんと思うものか・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・須利耶さまは写しかけの経文に、掌を合せて立ちあがられ、それから童子さまを立たせて、紅革の帯を結んでやり表へ連れてお出になりました。駅のどの家ももう戸を閉めてしまって、一面の星の下に、棟々が黒く列びました。その時童子はふと水の流れる音を聞かれ・・・ 宮沢賢治 「雁の童子」
・・・上り端の四畳に、夜具包が駅から着いたままころがしてある。今日は主の爺さんがいた。「勝手に始末しても悪かろうと思って――私が持って行って上げましょう」 縞の着物を着、小柄で、顔など女のように肉のついた爺は、夜具包みや、本、食品などつめ・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・道中の駅々では鞍置馬百五十疋、小荷駄馬二百余疋、人足三百余人を続ぎ立てた。 駿府の城ではお目見えをする前に、まず献上物が広縁に並べられた。人参六十斤、白苧布三十疋、蜜百斤、蜜蝋百斤の四色である。江戸の将軍家への進物十一色に比べるとはるか・・・ 森鴎外 「佐橋甚五郎」
・・・自動車を渋谷の駅に待たせてあるのです。」と、栖方は云った。「今ごろ御馳走を食べさすようなところ、あるんですか。」「水交社です。」「なるほど、君は海軍だったんですね。」と、梶は、今日は学生服ではない栖方の開襟服の肩章を見て笑った。・・・ 横光利一 「微笑」
・・・二、三年前の初夏、久しぶりに上京して東京駅から丸の内の高層建築街を抜けて濠側へ出たときであった。濠に面して新しい高層建築が建てそろっている。ここがあの荒れ果てた三菱が原であった時分から思うと、全く隔世の感がある。しかし自分を驚かせたのはこの・・・ 和辻哲郎 「城」
出典:青空文庫