・・・ 彼は其処につッ立って自分の方を凝と見て居る其眼つきを見て自分は更に驚き且つ怪しんだ。敵を見る怒の眼か、それにしては力薄し。人を疑う猜忌の眼か、それにしては光鈍し。たゞ何心なく他を眺る眼にしては甚決して気にしないで下さいな。気狂だと思っ・・・ 国木田独歩 「運命論者」
・・・ 三人は、思わず驚きの眼を見はって、野の豚群を眺め入った。 ところが、暫らくするうちに、二人の元気な男は、怒りに頸すじを赤くした。そして腕をぶる/\振わせだした。豚が野に放たれて呻き騒いでいる理由が分ったのであった。 三十分・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・ハテ、これはと思って、合点しかねているというと、船頭も驚きながら、旦那は気が附いたかと思って見ると、旦那も船頭を見る。お互に何だか訳の分らない気持がしているところへ、今日は少し生暖かい海の夕風が東から吹いて来ました。が、吉は忽ち強がって、・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・ お三輪は驚きもし、悲みもした。彼女自身が今は同じように、それとなく親しい人達への別れを告げて行こうとしていたからである。明日もあらば――また東京を見に来る日もあらば――そんな考えが激しく彼女の胸の中を往来するようになった。彼女は自分の・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・冗談などを口走り、また、連れて来た記者を矢庭に殴って、つかみ合いの喧嘩をはじめたり、また、私どもの店で使っているまだはたち前の女の子を、いつのまにやらだまし込んで手に入れてしまった様子で、私どもも実に驚き、まったく困りましたが、既にもう出来・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・一方ではまた、突然の暴行の後に釈放された白い母鳥も、ほんのちょっとばかり取り乱した羽毛をくちばしでかいつくろって、心ばかりの身じまいをしただけで、もう何事もなかったように、これも瞬間の驚きから回復したらしい十羽のひなを引率してしずしずと池の・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・箱崎川にかかっている土洲橋のほとりに引移ったが、中洲を去ること遠くはないので、わたくしは今もって折々診察を受けに行った帰道には、いつものように清洲橋をわたって深川の町々を歩み、或時は日の暮れかかるのに驚き、いそいで電車に乗ることもある。多年・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・我という個霊の消え失せて、求むれども遂に得がたきを、驚きて迷いて、果ては情なくてかくは乱るるなり。我を司どるものの我にはあらで、先に見し人の姿なるを奇しく、怪しく、悲しく念じ煩うなり。いつの間に我はランスロットと変りて常の心はいずこへか喪え・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・私の場合の印象もまた、おそらくはそれに類した驚きだった。麓の低い平地へかけて、無数の建築の家屋が並び、塔や高楼が日に輝やいていた。こんな辺鄙な山の中に、こんな立派な都会が存在しようとは、容易に信じられないほどであった。 私は幻燈を見るよ・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ 小万は驚きながらふッと気がつき、先刻吉里が置いて行ッた手紙の紙包みを、まだしまわず床の間に上げておいたのを、包みを開け捻紙を解いて見ると、手紙と手紙との間から紙に包んだ写真が出た。その包み紙に字が書いてあった。もしやと披げて読み下して・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫