・・・台所には襷がけの松が鰹節の鉋を鳴らしている。――その側を乱暴に通りぬけながら、いきなり店へ行こうとすると、出合い頭に向うからも、小走りに美津が走って来た。二人はまともにぶつかる所を、やっと両方へ身を躱した。「御免下さいまし。」 結い・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・毎朝味噌しるを拵えるとき、柳吉が襷がけで鰹節をけずっているのを見て、亭主にそんなことをさせて良いもんかとほとんど口に出かかった。好みの味にするため、わざわざ鰹節けずりまで自分の手でしなければ収まらぬ柳吉の食意地の汚さなど、知らなかったのだ。・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・「下の抽斗に鰹節があるから。と女は云いながら立って台所へ出でしが、つと外へ行く。「チョツ、削けといやあがるのか。と不足らしい顔つきして女を見送りしが、何が眼につきしや急にショゲて黙然になって抽斗を開け、小刀と鰹節とを取り出し・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・矢張、江戸風な橋の欄干の上に青銅の擬宝珠があり、古い魚河岸があり、桟橋があり、近くに鰹節問屋、蒲鉾屋などが軒を並べていて、九月はじめのことであって見れば秋鯖なぞをかついだ肴屋がそのごちゃごちゃとした町中を往ったり来たりしているようなところで・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・三代つづいた鰹節問屋の末っ子。ちがいますか? くだんの新内、薄化粧の小さな顔をにゅっと近よせ、あたりはばかるひそひそ声で、米屋、米屋、と囁いた。そこへ久保田万太郎があらわれた。その店の、十の電燈のうち七つ消されて、心細くなったころ、鼻赤き五・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・「ケチねえ、一ハラ気前よく買いなさい。鰹節を半分に切って買うみたい。ケチねえ。」「よし、一ハラ買う。」 さすが、ニヤケ男の田島も、ここに到って、しんから怒り、「そら、一枚、二枚、三枚、四枚。これでいいだろう。手をひっこめろ。・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・帰ってから用心に鰹節、梅干、缶詰、片栗粉などを近所へ買いにやる。何だか悪い事をするような気がするが、二十余人の口を託されているのだからやむを得ないと思った。午後四時にはもう三代吉の父親の辰五郎が白米、薩摩芋、大根、茄子、醤油、砂糖など車に積・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・ 土佐の貧乏士族としての我家に伝わって来た雑煮の処方は、椀の底に芋一、二片と青菜一とつまみを入れた上に切餅一、二片を載せて鰹節のだし汁をかけ、そうして餅の上に花松魚を添えたものである。ところが同じ郷里の親類でも家によると切餅の代りに丸め・・・ 寺田寅彦 「新年雑俎」
・・・それからTは国のみやげに鰹節をたった一本持って来たと言って笑われたこともある。しかし子供のような心で門下に集まる若い者には、あらゆる弱点や罪過に対して常に慈父の寛容をもって臨まれた。そのかわり社交的技巧の底にかくれた敵意や打算に対してかなり・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・また塩魚類鰹節の乾燥とか寒天の凍結とかいう製造方面の事柄にも物理学応用の範囲は意外に広大であるように見受けられる。近頃藤原理学士が乾燥に関する面白い物理学的の理論を出された。おそらくこの方面の先駆と見てよかろうと思う。 以上は自分の狭い・・・ 寺田寅彦 「物理学の応用について」
出典:青空文庫