・・・ 毎夜のように町では戸を閉めてから火鉢やこたつに当たりながら、家内の人々がいろいろの話をしていますと、沖の方で遠鳴りのする海の声がものさびしく、もの怖ろしく、ものすさまじく聞こえてくるのでありました。ある夜のこと、海の響きが常よりまして・・・ 小川未明 「黒い旗物語」
・・・ 町の人々は二人を見送って、「まだあの乞食がこの辺りをうろついている。早くどこへなりとゆきそうなものだ。犬にでもかまれればいいのだ。」と、涙のない残忍なことをいったものもあります。 そして爺と子供は、犬に追い駆けられてひどい・・・ 小川未明 「黒い旗物語」
・・・ その時分は大昔のことで、まだこの辺りにはあまり住んでいるものもなく、路も開けていなかったのでありました。家来は幾年となくその国じゅうを探して歩きました。そして、ついにこの国にきて、金峰仙という山のあることを聞いて、艱難を冒して、その山・・・ 小川未明 「不死の薬」
・・・「そうね。金さんは元から熱湯好きだったね。だけど、酔ってる時だけは気をおつけよ、人事じゃないんだよ」「大きに! まだどうも死ぬにゃ早いからな」「当り前さ、今から死んでたまるものかね。そう言えば、お前さん今年幾歳になったんだっけね・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・「……壕舎ばかりの隣組が七軒、一軒当り二千円宛出し合うて牛を一頭……いやなに密殺して闇市へ売却するが肚でがしてね。ところが買って来たものの、屠殺の方法が判らんちゅう訳で、首の静脈を切れちゅう者もあれば眉間を棍棒で撲るとええちゅう訳で、夜・・・ 織田作之助 「世相」
・・・自然の草木ほどにも威勢よく延びて行くという子供らの生命力を目の当り見せられても、讃美の念は起らず、苦痛であった。六 第二の破産状態に陥って、一日一日と惨めな空足掻きを続けていた惣治が、どう言って説きつけたものか、叔父から千円・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ S―は最初、ふとした偶然からその女に当り、その時、よもやと思っていたような異様な経験をしたのであった。その後S―はひどく酔ったときなどは、気持にはどんな我慢をさせてもという気になってついその女を呼ぶ、心が荒くなってその女でないと満足で・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・その後追いおいに気づいていったことなのであるが、この美しい水音を聴いていると、その辺りの風景のなかに変な錯誤が感じられて来るのであった。香もなく花も貧しいのぎ蘭がそのところどころに生えているばかりで、杉の根方はどこも暗く湿っぽかった。そして・・・ 梶井基次郎 「筧の話」
・・・ 時どき烟を吐く煙突があって、田野はその辺りから展けていた。レンブラントの素描めいた風景が散らばっている。 黝い木立。百姓家。街道。そして青田のなかに褪赭の煉瓦の煙突。 小さい軽便が海の方からやって来る。 海からあがって来た・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・自分はその辺りに転っている鉋屑を見、そして自分があまり注意もせずに煙草の吸殻を捨てるのに気がつき、危いぞと思った。そんなことが頭に残っていたからであろう、近くに二度ほど火事があった、そのたびに漠とした、捕縛されそうな不安に襲われた。「この辺・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
出典:青空文庫