・・・そよとの風も部屋にない暑い日ざかりにも、その垣の前ばかりは坂に続く石段の方から通って来るかすかな風を感ずる。わたしはその前を往ったり来たりして、曾て朝顔狂と言われたほどこの花に凝った鮫島理学士のことを思い出す。手長、獅子、牡丹なぞの講釈を聞・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・次郎はそれを厚い紙箱に入れて、旅に提げて行かれるように荷造りした。 その時になってみると、太郎はあの山地のほうですでに田植えを始めている。次郎はこれから出かけようとしている。お徳もやがては国をさして帰ろうとしている。次郎のいないあとは、・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ 熱い同情が老人の胸の底から涌き上がった。その体は忽ち小さくなって、頭がぐたりと前に垂れて、両肩がすぼんで、背中が曲がった。丁度水を打ち掛けられた犬のような姿である。そしてあわただしげに右の手をずぼんの隠しに入れてありたけの貨幣を掴み出・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・しかし肉はいつの間にか皮の下で消え失せてしまって、その上の皮ががっしりした顴骨と腮との周囲に厚い襞を拵えて垂れている。老人は隠しの中の貨幣を勘定しながら、絶えず唇を動かして独言を言って、青い目であちこちを見て、折々手を隠しから出さずに肘を前・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・しかし、その毒蛇も竜も、日中一ばん暑いときに三時間だけ寝ますから、そのときをねらって、こっそりとおりぬければ大丈夫です。」と言いました。ウイリイはそのとおりにして、犬と一しょに、無事に城の中へはいりました。 城の門も、中の方々の戸も、す・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・ その先には作物を作らずに休ませておく畑があって、森の中よりもずっと熱い日がさしていました。灰色の土塊が長く幾畦にもなっているかと思うと、急にそれが動きだしたので、よく見ると羊の群れの背が見えていたのでした。 羊、その中にも小羊はお・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・ わかいおかあさんはこの大事な重荷のために息を切って、森の中は暑いものだから、汗の玉が顔から流れ下りました。「のどがかわきました、ママ」 とおさないむすめは泣きつくのでした。「いい子だからこらえられるだけこらえてごらんなさい・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・此をお読みになる時は、熱い印度の、色の黒い瘠せぎすな人達が、男は白いものを着、女は桃色や水色の薄ものを着て、茂った樹かげの村に暮している様子を想像して下さい。 女の子が、スバシニと云う名を与えられた時、誰が、彼女の唖なことを思い・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・また、晩ごはんのときには、ひとり、ひとりお膳に向って坐り、祖母、母、長兄、次兄、三兄、私という順序に並び、向う側は、帳場さん、嫂、姉たちが並んで、長兄と次兄は、夏、どんなに暑いときでも日本酒を固執し、二人とも、その傍に大型のタオルを用意させ・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・黒の、やや厚いラシャ地でした。これを冬の外套として用いました。この外套には、白線の制帽も似合って、まさしく英国の海軍将校のように見えるだろうと、すこし自信もあったようです。白のカシミヤの手袋を用い、厳寒の候には、白い絹のショオルをぐるぐる頸・・・ 太宰治 「おしゃれ童子」
出典:青空文庫