・・・『兄さん、貴方は死んで呉れちゃいやですよ。決して死ぬんじゃありませんよ。貴方は普通の兵士ですよ。戦争の時、死ぬ為に、平生から扶持を受けてる人達とは違ってよ。兄さん自分から好んで、』 強い咳払いを一つ、態と三つまで続けて、其女の方の言・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・』『あらいやだ。』 若子さんは頓興に大きな声で、斯うお云いでしたから、何かと思うと、また学生がつい其処に立って居るのでした。『何だか可厭な人だわ。』『そうねえ。』『彼方へ行った方が可いね。』 若子さんが人と人との間を・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・あの時の事を思えば、まあ、どんなに嬉しかったろう。貴方はもう忘れておしまいなされたか。貴方はわたしを非道い目にお逢せなさいました。ほんにほんに非道いめに。だが、世の中の事は何でも苦痛に終らぬ事は無い。ほんにわたしの嬉しいと思ったその数は、指・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・上り端の四畳の彼方に三畳の小間がある。そこが夫婦の寝起きの場所で夕飯が始まったらしい。彼等も今晩は少しいつもと異った心持らしく低声で話し、間に箸の音が聞えた。 陽子はコーンビーフの罐を切りかけた、罐がかたく容易に開かない、木箱の上にのせ・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・私は貴方さまにそんなにしていただくほど身分の高いものではございませんですから……第一の精霊 云うでござる、身分の高いものではございませんですから―― 良う御ききなされ美くしいシリンクス殿。 年老いた私共は、その若人のするほどにも・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
・・・ 銃後の力としての女の労働力は、決して貴方が七分、私が三分的な和気あいあい的なものではない。その労作の面で課せられる仕事の実質は、大の男を瞠若たらしめるだけのものなのである。科学主義工業の提唱者は、おおうところなく明言している。例外なし・・・ 宮本百合子 「新しい婦人の職場と任務」
・・・私たちはそういう歴史の展望をも空想ではない未来の絵姿として自分の一つの生涯の彼方によろこびをもって見ているのも事実である。 未来の絵姿はそのように透明生気充満したものであるとしても、現在私たちの日常は実に女らしさの魑魅魍魎にとりまかれて・・・ 宮本百合子 「新しい船出」
・・・「今其那に女中なんかないのよ。貴方男だから好きになすったって如何かなるには違いないけれど。――私困るわ。――返事位少し沢山したってれんを置いて下さればいいのに。……あの人もあの人ね。私に云うと止められるものだから、まるで狡いわ。ただ行っ・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・ただいとうにはゆるは彼方の親切にて、ふた親のゆるしし交際の表、かいな借さるることもあれど、ただ二人になりたるときは、家も園もゆくかたものういぶせく覚えて、こころともなく太き息せられても、かしら熱くなるまで忍びがとうなりぬ。なにゆえと問いたも・・・ 森鴎外 「文づかい」
・・・しかし、そういう物の一つも見えない水平線の彼方に、ぽっと射し露われて来た一縷の光線に似たうす光が、あるいはそれかとも梶は思った。それは夢のような幻影としても、負け苦しむ幻影より喜び勝ちたい幻影の方が強力に梶を支配していた。祖国ギリシャの敗戦・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫