・・・「吉田? 何だい、その吉田てえのは?」「私の亭主の苗字さ」と言って、女は無理に笑顔を作る。「え」と男は思わず目を見張って顔を見つめたが、苦笑いをして、「笑談だろう?」「あら、本当だよ。去年の秋嫁いて……金さんも知っておいでだ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・もう一方の眼はあらぬ方に向けられていた。斜視だなと思った。とすれば、ひょっとすると、女の眼は案外私を見ていないのかもしれない。けれどともかく私は見られている。私は妙な気持になって、部屋に戻った。 なんだか急に薄暗くなった部屋のなかで、浮・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・まだ二三日は命が繋がれようというもの、それそれ生理心得草に、水さえあらば食物なくとも人は能く一週間以上活くべしとあった。又餓死をした人の話が出ていたが、その人は水を飲でいたばかりに永く死切れなかったという。 それが如何した? 此上五六日・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・それがこの三年以来の暑気だという東京の埃りの中で、藻掻き苦しんでいる彼には、好い皮肉であらねばならなかった。「いや、Kは暑を避けたんじゃあるまい。恐らくは小田を勿来関に避けたという訳さ」 斯う彼等の友達の一人が、Kが東京を発った後で・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・「勝子、あれどこの人?」「あら。お母さんや。お母さんや」「嘘いえ。他所のおばさんだよ。見ておいで。家へは這入らないから」 その時の顔を峻は思い出した。少し変だったことは少し変だった。家のなかばかりで見馴れている家族を、ふと往・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・辰弥も今は相対う風色に見入りて、心は早やそこにあらず。折しも障子はさっと開きて、中なる人は立ち出でたるがごとし。辰弥の耳は逸早く聞きつけて振り返りぬ。欄干にあらわれたるは五十路に近き満丸顔の、打見にも元気よき老人なり。骨も埋もるるばかり肥え・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・まれの母上の方が明治十二年生まれの妻よりも育児の上においてむしろ開化主義たり急進党なることこそその原因に候なれ、妻はご存じの田舎者にて当今の女学校に入学せしことなければ、育児学など申す学問いたせしにもあらず、言わば昔風の家に育ちしただの女が・・・ 国木田独歩 「初孫」
・・・ 善によって女性の美を求め、女性の美によって善を豊かに、生彩あらしめよ。美しい娘を思うことによって、高貴なたましいになりたいと願うこころがますます刺激されるような恋愛をせよ。 音楽会に行って、美しい令嬢のピアノを弾いた知性と魅力のあ・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・「お前は、人をよせつけないから、ザンパンが有ったってやらないよ。」「あら、そう。」 彼女は響きのいい、すき通るような声を出した。「そうだとも、あたりまえだ。」「じゃいい。」 黒く磨かれた、踵の高い靴で、彼女はきりっと・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・「ほんとに嫌な人だっちゃない。あら、お前の頸のところに細長い痣がついているよ。いつ打たれたのだい、痛そうだねえ。」と云いながら傍へ寄って、源三の衣領を寛げて奇麗な指で触ってみると、源三はくすぐったいと云ったように頸を縮めて障りながら・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
出典:青空文庫