・・・それは、隣室との境の襖の上を歩く、さらさらとした音だった。太長い足であった。 寝ることになったが、その前に雨戸をあけねばならぬ、と思った。風通しの良い部屋とはどこをもってそう言うのか、四方閉め切ったその部屋のどこにも風の通う隙間はなく、・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・が、しかし考えてみれば、人生は面白いもの、あの犬の不幸に遭った日は俺には即ち幸福な日で、歩くも何か酔心地、また然うあるべき理由があった。ええ、憶えば辛い。憶うまい憶うまい。むかしの幸福。今の苦痛……苦痛は兎角免れ得ぬにしろ、懐旧の念には責め・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・彼はよたよたと歩く別の動物になってしまう。遂にそれさえしなくなる。絶望! そして絶え間のない恐怖の夢を見ながら、物を食べる元気さえ失せて、遂には――死んでしまう。 爪のない猫! こんな、便りない、哀れな心持のものがあろうか! 空想を失っ・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・豊吉はしばらく杉の杜の陰で休んでいたが、気の弱いかれは、かくまでに零落れてその懐かしい故郷に帰って来ても、なお大声をあげて自分の帰って来たのを言いふらすことができない、大手を振って自分の生まれた土地を歩くことができない、直ちに兄の家、すなわ・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・あるいは席にこぼれ、廊下を歩く娘たちの活々とした、しかし礼儀ある物ごし――寄宿舎に帰っても、美の幻にまだつつまれてるようだ。それは学べよ、磨けよというようだ。 寒い街を歩いて夕刊売りの娘を見た。無造作な髪、嵐にあがる前髪の下の美しい額。・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・ばりばり雪を踏み砕いて歩く兵士の靴音は、空に呑まれるように消えて行った。 彼等は、早朝から雪の曠野を歩いているのであった。彼等は、昼に、パンと乾麺麭をかじり、雪を食ってのどを湿した。 どちらへ行けばイイシに達しられるか! 右手向・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ これを聞くとかの急ぎ歩で遣って来た男の児はたちまち歩みを遅くしてしまって、声のした方を見ながら、ぶらりぶらりと歩くと、女の児の方では何かに打興じて笑い声を洩らしたが、見る人ありとも心付かぬのであろう、桑の葉越に紅いや青い色をちらつかせ・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・外を歩くと、雪道が硝子の面よりも堅く平らに凍えて、ギュン/\と何かものでもこわれるような音をたてる……。所謂「十二月一日事件」の夜明頃などは、空気までそのまゝの形で凍えていたような「しばれ」だったよ。 あの「ガラ/\」の山崎のお母さんで・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・学士がユックリユックリ歩くので他の二人は時々足を停めて待合わせては復たサッサと歩いた。「しかし、女でも何でも働くところですネ」と子安は別れ際に高瀬に言った。 高瀬も佇立って、「畢竟、よく働くから、それでこう女の気象が勇健いんでしょう・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ギンは、「だって今日ばかりは、どうしても二人でいかなければいけない。歩くのがいやなら、お前だけは馬でいけばいい。あすこにいる馬をどれか一ぴきつかまえておおき。私はその間に家へいって、手綱と鞍をもって来るから。」と言いました。女は、「・・・ 鈴木三重吉 「湖水の女」
出典:青空文庫