・・・私の申しわけ、わたくしの取留めの無い挙動の申しわけはこの一字に在るのでございます。 ピエエルさん。わたくしはただいま白状いたします。わたくしはもう十六年前にあなたに恋をいたしていました。あなたが高等学校をお出になったばっかりの世慣れない・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・例えば伽羅くさき人の仮寝や朧月女倶して内裏拝まん朧月薬盗む女やはある朧月河内路や東風吹き送る巫が袖片町にさらさ染るや春の風春水や四条五条の橋の下梅散るや螺鈿こぼるゝ卓の上玉人の座右に開く椿かな梨の花月・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・花を蹈みし草履も見えて朝寐かな妹が垣根三味線草の花咲きぬ卯月八日死んで生るゝ子は仏閑古鳥かいさゝか白き鳥飛びぬ虫のためにそこなはれ落つ柿の花恋さま/″\願の糸も白きより月天心貧しき町を通りけり羽蟻飛ぶや富・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ そしてちょうど星が砕けて散るときのように、からだがばらばらになって一本ずつの銀毛はまっしろに光り、羽虫のように北の方へ飛んで行きました。そしてひばりは鉄砲玉のように空へとびあがって鋭いみじかい歌をほんのちょっと歌ったのでした。 私・・・ 宮沢賢治 「おきなぐさ」
・・・ 彼の人が来れば仕事の有る時は、一人放って置いて仕事をし、暇な時は寄っかかりっこをしながら他愛もない事を云って一日位座り込んで居る。 あきれば、「又来ます、気が向いたら。と云って一人でさっさと帰って行く。 私は、・・・ 宮本百合子 「秋風」
・・・柿の花が散る頃だ。雨は屡々降ったと思う。余り降られると、子供等の心にも湿っぽさが沁みて来る。ぼんやり格子に額を押しつけて、雨水に浮く柿の花を見ている。いつまでも雨が降り、いつまでも沢山の壺のような柿の花が漂っているから、子供達もいつまでもそ・・・ 宮本百合子 「雨と子供」
・・・蓋の縫目より呪文をとなえ底なき瞳は世のすべてをすかし見て生あるものやがては我手に落ち来るを知りて 嘲笑う――重き夜の深き眠りややさめて青白き暁光の宇宙の一端に生るれば死はいずこかの片すみにかがま・・・ 宮本百合子 「片すみにかがむ死の影」
随分昔のことであるけれども、房州の白浜へ行って海女のひとたちが海へ潜って働くのや天草とりに働く姿を見たことがあった。 あの辺の海は濤がきつく高くうちよせて巖にぶつかってとび散る飛沫を身に浴びながら歌をうたうと、その声は・・・ 宮本百合子 「漁村の婦人の生活」
・・・只「ほんとうにすまないことになった、私のために……乳母も紅もあんなに世話をして呉れたのに、どうぞこの生る甲斐のない母をうらんで御呉れ」 こんなことばかり云っていた。「□(業でございましょう、私の御世話をいたしましたのも若様の御な・・・ 宮本百合子 「錦木」
・・・その無いものを有るかのように考えなくては、倫理は成り立たない。理想と云っているものはそれだ。法律の自由意志と云うものの存在しないのも、疾っくに分かっている。しかし自由意志があるかのように考えなくては、刑法が全部無意味になる。どんな哲学者も、・・・ 森鴎外 「かのように」
出典:青空文庫