・・・「それでもまだ剛情を張るんなら、あすこにいる支那人をつれて来い」「あれは私の貰い子だよ」 婆さんはやはり嘲るように、にやにや独り笑っているのです。「貰い子か貰い子でないか、一目見りゃわかることだ。貴様がつれて来なければ、おれ・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・「うん、――昨夜夜っぴて煙草ばかり呑んでいたもんだから、すっかり舌が荒れてしまった。」 洋一は陰気な顔をして、まだ長い吸いさしをやけに火鉢へ抛りこんだ。「でもお母さんが唸らなくなったから好いや。」「ちっとは楽になったと見える・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・その上荒れはてた周囲の風物が、四方からこの墓の威厳を害している。一山の蝉の声の中に埋れながら、自分は昔、春雨にぬれているこの墓を見て、感に堪えたということがなんだかうそのような心もちがした。と同時にまた、なんだか地下の樗牛に対してきのどくな・・・ 芥川竜之介 「樗牛の事」
・・・去年も今年も不作で納金に困る由をあれだけ匂わしておきながら、いざ一人になるとそんな明らかなことさえ訴えようとする人はなかった。彼はそれでも十四、五人までは我慢したが、それで全く絶望してもう小作人を呼び入れることはしなかった。そして火鉢の上に・・・ 有島武郎 「親子」
・・・津波のような音をたてて風のこもる霜枯れの防風林には烏もいなかった。荒れ果てた畑に見切りをつけて鮭の漁場にでも移って行ってしまったのだろう。 昼少しまわった頃仁右衛門の畑に二人の男がやって来た。一人は昨夜事務所にいた帳場だった。今一人は仁・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・「あれだ。あれだ。」フレンチは心臓の鼓動が止まるような心持になって、今こそある事件が始まるのだと燃えるようにそれを待っているのである。 罪人は気を取り直した様子で、広間に這入って来た。一刹那の間、一種の、何物をか期待し、何物をか捜索する・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 慈悲深い貴夫人の顔は、それとは違って、風雨に晒された跡のように荒れていて、色が蒼い。 貴夫人はもう誰にも光と温とを授けることは出来ないだろう。 それで魚に同情を寄せるのである。 なんであの魚はまだ生を有していながら、死なね・・・ 著:アルテンベルクペーター 訳:森鴎外 「釣」
・・・何処かへ出ていても、飯時になれあ直ぐ家のことを考える。あれだけでも僕みたいな者にゃ一種の重荷だよ。それよりは何処でも構わず腹の空いた時に飛び込んで、自分の好きな物を食った方が可じゃないか。何でも好きなものが食えるんだからなあ。初めの間は腹の・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・手入をしない囲なぞの荒れたのを、そのまま押入に遣っているのであろう、身を忍ぶのは誂えたようであるが。 案内をして、やがて三由屋の女中が、見えなくなるが疾いか、ものをいうよりはまず唇の戦くまで、不義ではあるが思う同士。目を見交したばか・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ そうじゃないんですか、あら、あれお聞きなさい。あの大勢の人声は、皆、貴下の名誉を慕うて、この四阿へ見に来るのです。御覧なさい、あなたがお仕事が上手になると、望もかなうし、そうやってお身体も輝くのに、何が待遠くって、道ならぬ心を出すんで・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
出典:青空文庫