・・・なんでもなん千年というむかし、甲斐と駿河の境さ、大山荒れがはじまったが、ごんごんごうごう暗やみの奥で鳴りだしたそうでござります。そうすると、そこら一面石の嵐でござりまして、大石小石の雨がやめどなく降ったそうでござります。五十日のあいだという・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・「ヘイ、お富士山はあれ、あっこに秦皮の森があります。ちょうどあっこらにめいます。ヘイ。こっから東の方角でございます。ヘイ。あの村木立ちでございます。ヘイ、そのさきに寺がめいます、森の上からお堂の屋根がめいましょう。法華のお寺でございます・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・「あれやさかい厭になってしまう。親子四人の為めに僅かの給料で毎日々々こき使われ、帰って晩酌でも一杯思う時は、半分小児の守りや。養子の身はつらいものや、なア。月末の払いが不足する時などは、借金をするんも胸くそ悪し、いッそ子供を抱いたまま、・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・日本人は画の理解があればあるほど狩野派とか四条派とか南宗とか北宗とかの在来の各派の画風に規矩され、雪舟とか光琳とか文晁とか容斎とかいう昔しの巨匠の作に泥んだ眼で杓子定規に鑑賞するから、偶々芸術上のハイブリッドを発見しても容易に芸術的価値を与・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・われわれに思想さえあれば、われわれがことごとく先生になれるという考えを抛却してしまわねばならぬ。先生になる人は学問ができるよりも――学問もなくてはなりませぬけれども――学問ができるよりも学問を青年に伝えることのできる人でなければならない。こ・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・還りきたれば国は荒れ、財は尽き、見るものとして悲憤失望の種ならざるはなしでありました。「今やデンマークにとり悪しき日なり」と彼らは相互に対していいました。この挨拶に対して「否」と答えうる者は彼らのなかに一人もありませんでした。しかるにここに・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・若しこの社会の有力なる識者が、真に母が子供に対する如き無窮の愛と、厳粛さとを有って行うのであれば宜しいけれども、そうでないならば寧ろ自然の儘に放任して置くに如かぬ、彼等の多くは愛を誤解している。 茲に苦しんでいる人間があるとする。それを・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
・・・ 昔は、このあたりは、繁華な町があって、いろいろの店や、りっぱな建物がありましたのですけれど、いまは、荒れて、さびしい漁村になっていました。 春になると、城跡にある、桜の木に花が咲きました。けれど、この咲いた花をながめて、歌をよんだ・・・ 小川未明 「海のかなた」
・・・「さっきお前さんが持って上った日和下駄、あれは桐だね。鼻緒は皮か何だね。」「皮でしょう。」「お見せ。」 寝床の裾の方の壁ぎわに置いてあったのを出して見せると、上さんはその鼻緒を触ってみて、「じゃ、これでも預かっとこう。お・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・足柄山の熊がお入用だとあれば、直ぐここで足柄山の熊をお椀にして差し上げます……」 すると見物の一人が、大きな声でこう叫りました。「そんなら爺い、梨の実を取って来い。」 ところが、その時は冬で、地面の上には二三日前に降った雪が、ま・・・ 小山内薫 「梨の実」
出典:青空文庫