・・・ 二 彼の問いと危機 日蓮は太平洋の波洗う外房州の荒れたる漁村に生まれた。「日蓮は日本国東夷東条安房国海辺旃陀羅が子也」と彼は書いている。今より七百十五年前、後堀川天皇の、承久四年二月十六日に、安房ノ国長狭郡東条に貫・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・「へえ、でも、あれは、一文も持っとりゃしません。」「無いのか、仕方のない奴だ!――だがまあ二十円位い損をしたって、泥棒を傭うて置くよりゃましだ。今すぐぼい出してしまえ!」「へえ、さようでございます。」と杜氏はまた頭を下げた。・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・そして唇が荒れ出した。腹では胎児がむく/\と内部から皮を突っぱっていた。四 百姓は、生命よりも土地が大事だというくらい土地を重んじた。 死人も、土地を買わなければ、その屍を休める場所がない。――そういう思想を持っていた。・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・世の中は無事でさえあれば好いというのなら、これでよかったのだ。しかし若崎のこの答は、どうしても、何か有るのを露わすまいとしているのであると感じられずにはいない。「きっと出来るよ。君の腕だからナ。」と軽い言葉だ。善意の奨励だ。赤剥きに・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・枝路のことなれば闊からず平かならず、誰が造りしともなく自然と里人が踏みならせしものなるべく、草に埋もれ木の根に荒れて明らかならず、迷わんとすること数次なり。山沿いの木下蔭小暗きあたりを下ること少時にして、橋立川と呼ぶものなるべし、水音の涼し・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・小泉三申は、「幸徳もあれでよいのだと話している」といってきた。どんなに絶望しているだろうと思った老いた母さえ、すぐに「かかる成り行きについては、かねて覚悟がないでもないからおどろかない。わたくしのことは心配するな」といってきた。 死刑!・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・こちらミンナたッしゃです。あれからこゝでコサクそうぎがおこりましたよ。私もやってます。あなたさまのお話わすれません。兄さんのことはクレグレもおたのみします。母はまだキョウサントウと云えませんよ。まだ自分のむすこのことが分らないのです。元気で・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
・・・ようかねと撃て放せと向けたる筒口俊雄はこのごろ喫み覚えた煙草の煙に紛らかしにっこりと受けたまま返辞なければ往復端書も駄目のことと同伴の男はもどかしがりさてこの土地の奇麗のと言えば、あるある島田には間があれど小春は尤物介添えは大吉婆呼びにやれ・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・七「へえ一枚二十五両ッ……これが一枚あれば家内にぐず/″\いわれる訳はないが、二枚並んでゝも他人の宝を見たって仕方がないな」殿「何をぐず/″\いって居る、別に欲しくはないか、一枚やろうかな」七「へゝゝゝ嘘ばっかり」殿「なに嘘・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・ 次郎は次郎でこんなふうに引き受け顔に言って、画作の暇さえあれば一人でも借家をさがしに出かけた。 今さらのように、私は住み慣れた家の周囲を見回した。ここはいちばん近いポストへちょっとはがきを入れに行くにも二町はある。煙草屋へ二町、湯・・・ 島崎藤村 「嵐」
出典:青空文庫