・・・ 汽車に乗って遥々と出てきたのだが、然し母親が考えていたよりも以上に、監獄のコンクリートの塀が厚くて、高かった。それは母親の気をテン倒させるに充分だった。しかもその中で、あの親孝行ものゝ健吉が「赤い」着物をきて、高い小さい鉄棒のはまった・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
・・・好い風の来る夕方もすくなく、露の涼しい朝もすくなければ、暁から鳴く蝉の声、早朝からはじまるラジオ体操の掛声まで耳について、毎日三十度以上の熱した都会の空気の中では夜はあっても無いにもひとしかった。わたしは古人の隠逸を学ぶでも何でもなく、何と・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・彼女は孤独で震えるように成ったばかりでなく、もう長いこと自分の身体に異状のあることをも感じていた。彼女は娘のお新と共に――四十の歳まで結婚させることも出来ずに処女で通させて来たような唯一人の不幸なお新と共に最後の「隠れ家」を求めようとするよ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・彼処から奥州の方へ旅をして、帰って来て、『松島に於て芭蕉翁を読む』という文章を発表したが、その旅から帰る頃から、自分でも身体に異状の起って来た事を知ったと見えて、「何でも一つ身体を丈夫にしなくちゃならない」というので、国府津の前川村の方へ引・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・七歳になる可愛らしい女の児を始め、四人の子供はめずらしそうに、この髭の叔父さんを囲繞いた。御届私儀、病気につき、今日欠勤仕り度、此段御届に及び候也。 こう相川は書いて、それを車夫に持たせて会社へ届けることにした。・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・直観道学はそれを打ち消して利己以上の発足点を説こうけれども、自分らの知識は、どうも右の事実を否定するに忍びない。かえって否定するものの心事が疑われてならない。(衆生済度傍に千万巻の経典を積んでも、自分の知識は「道徳の底に自己あり」という一言・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・ そのために東京、横浜、横須賀以下、東京湾の入口に近い千葉県の海岸、京浜間、相模の海岸、それから、伊豆の、相模なだに対面した海岸全たいから箱根地方へかけて、少くて四寸以上のゆれ巾、六寸の波動の大震動が来たのです。それが手引となって、東京・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・ おばあさんはそれを聞きましたが、その日はこの世も天国ほどに美しくって、これ以上のものをほしいとも思いませんでしたから、礼を言って断わってしまいました。 で鳩は今度は牧場を飛び越して、ある百姓がしきりと井戸を掘っている山の中の森に来・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・二重もしくは、二重以上の無限級数の定義には、二種類あるのではないか、と思われる。画を書いてお目にかけると、よくわかるのですが、謂わば、フランス式とドイツ式と二つある。結果は同じ様なことになるのだが、フランス式のほうは、すべての人に納得の行く・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・ そのとしの、四月ごろから、兄は異常の情熱を以て、制作を開始いたしました。モデルを家に呼んで、大きいトルソオに取りかかった様子でありました。私は、兄の仕事の邪魔をしたくないので、そのころは、あまり兄の家を訪ねませんでした。いつか夜、ちょ・・・ 太宰治 「兄たち」
出典:青空文庫