・・・自分はその不安な一語を耳にはさんで、走りに走った。走れば十分とはかからぬ間なれど肥った自分には息切れがしてほとんどのめりそうである。ようやく家近く来ると梅子が走ってきた。自分はまた、「奈々子は泣いたか」「まだ泣かない、お父さんまだ医・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・この一語を聞いた時の僕の心持は自分ながら不思議と思うほどの平気であった。僕が民子を思っている感情に何らの動揺を起さなかった。これには何か相当の理由があるかも知れねど、ともかくも事実はそうである。僕はただ理窟なしに民子は如何な境涯に入ろうとも・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・省作はとうとう一語も言い得ない。 悲しくつらく玉の緒も断えんばかりに危かりし悲惨を免れて僅かに安全の地に、なつかしい人に出逢うた心持ちであろう。限りなき嬉しさの胸に溢れると等しく、過去の悲惨と烈しき対照を起こし、悲喜の感情相混交して激越・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ なぜなら、大阪の闇市場の特色はこの一語に尽きるからである。 例えば主食を売っている。闇煙草を売っている。金さえ持って闇市場へ行けば、いつでも、たとえ夜中でも、どこかで米の飯が食べられるし、煙草が買えるのである。といえば、東京の人人・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・という一語では片づけなかっただろう。むろんこれらの作品は低俗かも知れない。しかし、すくなくと反俗であり、そして、よしんば邪道とはいえ、新しい小説のスタイルを作りあげようという僕の意図は、うぬぼれでなしに、読みとれる筈だ。しかし、僕はこのよう・・・ 織田作之助 「文学的饒舌」
・・・ 水野が堪え堪えし涙ここに至りて玉のごとく手紙の上に落ちたのを見て、聴く方でもじっと怺えていたのが、あだかも電気に打たれたかのように、一斉に飛び立ったが感極まってだれも一語を発し得ない。一種言うべからざるすさまじさがこの一区画に充ちた。・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・「否と先ず一語を下して置きます。諸君にしてもし僕の不思議なる願というのを聴いてくれるなら談しましょう」「諸君は知らないが僕は是非聴く」と近藤は腕を振った。衆皆は唯だ黙って岡本の顔を見ていたが松木と竹内は真面目で、綿貫と井山と上村は笑・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・と言ったぎり、彼は舟中僕に一語を交じえなかったから、僕はなんのために徳二郎がここに自分を伴のうたのか少しもわからない、しかし言うままに舟を出た。 もやいをつなぐや、徳二郎も続いて石段に上がり、先に立ってずんずん登って行く、そのあとから僕・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・と自分は膝を拍った時、頭から水を浴たよう。崕を蹈外そうとした刹那の心持。 自分は暫らく茫然として机の抽斗を眺めていたが、我知らず涙が頬をつとうて流れる。「余り酷すぎる」と一語僅かに洩し得たばかり。妻は涙の泉も涸たか唯だ自分の顔を見て・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・と、見だての無い衣裳を着けている男の口からには似合わない尊大な一語が発された。然し二人は圧倒されて愕然とした、中辺の高さでは有るが澄んで良い声であった。「揃いも揃って、感心しどころのある奴の。」 罵らるべくもあるところを却って褒・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
出典:青空文庫