・・・もう少し生きていてもらわんと困るって、伊都喜さんが話していらしたわ」 伊都喜というのは、道太の兄のやっている会社の社長の弟であった。 それからその一家の経済的窮状や、死活問題の繋っている鉱山の話などしながら、次ぎ次ぎに運ばれる料理を・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・されば昔のままなる庭の石には苔いよいよ深く、樹木の陰はいよいよ暗く、その最も暗い木立の片隅の奥深いところには、昔の屋敷跡の名残だという古井戸が二ツもあった。その中の一ツは出入りの安吉という植木屋が毎年々々手入の松の枯葉、杉の折枝、桜の落葉、・・・ 永井荷風 「狐」
・・・それより猶お女のつれないということが彼には当然のことなのでそれを格別不足に思うということはなくなって居たのである。女房とすら彼は余所目には打ち解けなかった。朝夕顔を見合わす間柄はそんなに追従いうことの出来ないのは当然である。だが其兄とさえ昵・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・そこで今度は二人してまた東西南北を馳け廻った揚句の果やはりチェイン・ローが善いという事になった。両人がここに引き越したのは千八百三十四年の六月十日で、引越の途中に下女の持っていたカナリヤが籠の中で囀ったという事まで知れている。夫人がこの家を・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・家厳が力をつくして育し得たる令息は、篤実一偏、ただ命これしたがう、この子は未だ鳥目の勘定だも知らずなどと、陽に憂てその実は得意話の最中に、若旦那のお払いとて貸座敷より書附の到来したる例は、世間に珍しからず。 人の智恵は、善悪にかかわらず・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・聖人は赤児の如しという言葉が、其に幾らか似た事情で、かねて成り度いと望んでた聖人に弥々成って見れば、やはり子供の心持に還る。これ変ったと云えば大に変り、変らんと云えば大に変らん所じゃないか。だから先きへばかり眼を向けるのが抑の迷い。偶には足・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・いへるはふさはしからず、橘のえにしあれば忍ぶの屋とけふよりあらためよといへり、屋のきたなきことたとへむにものなし、しらみてふ虫などもはひぬべくおもふばかりなり、かたちはかく貧くみゆれど其心のみやびこそいといとしたはしけれ、おのれは富貴の身に・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・たしかにあれがみんな星だと、いつか雑誌で読んだのでしたが、このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないという気持ちがするのでした。 ところが先生は早くもそれを見附けた・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・むしろ、落ついて心持のよい音楽でもきいて活動の準備をしたいと御思いにならないでしょうか。 一、ところで、いま、みなさまのお心にはどんなお考えがあるでしょう。実に様々であろうと思います。 一、きょうは一つ本を買おう一つ靴みがきをさせよ・・・ 宮本百合子 「朝の話」
・・・を復活させようとするファシズムの明らかな意図と、しっかりたたかわなければならないという必要がおこっている。戦争によってこれだけ深い犠牲をはらった全日本の女性の、将来の戦争と再びはびころうとしているファシズムへのつよい反対がないならば、女性の・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第十五巻)」
出典:青空文庫