・・・坐席がびっくりする程高いオープンで、ギヤー・ブレーキ・ハンドルすべてが露出である。エンジンだけが覆われている。ハンドルは坐席に合わせてまるで低いところについているから、美人は愛嬌よい顔をこちらに向けつつも背中は痛々しい程の前屈みになっている・・・ 宮本百合子 「中條精一郎の「家信抄」まえがきおよび註」
・・・飛行機でとび立つその日まで、ひたかくしにかくされていて、その日にとられた写真での彼の表情は、まるで一刻も早く飛行機のエンジンがまわりだすのを待ちかねている風情だった。その顔に不安があった。彼に「アッツ島玉砕」という悽惨きわまりない絵がある。・・・ 宮本百合子 「手づくりながら」
・・・大型遊覧自動車のエンジンの音響はトンネルじゅうの空気をゆすぶった。塵埃を捲き上げて穹窿形の天井から下ってる大電燈の光を黄色くした。鳥打帽の若い労働者が女の腕をとって、その長いトンネル内を歩いている。男も黒いなりだ。女も若いが黒いなりだ。全光・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
・・・その海の断面のような月夜の下で、花園の花々は絶えず群生した蛾のようにほの白い円陣を造っていた。そうして月は、その花々の先端の縮れた羊のような皺を眺めながら、蒼然として海の方へ渡っていった。 そういう夜には、彼はベランダからぬけ出し夜の園・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・さらにはなはだしいのは神前にささげる閹人の踊りである。閹人たちは踊りが高潮に達した時に小刀をもって腕や腿を傷つける。そうして血みどろになって猛烈に踊り続ける。それを見まもる者はその血の歓びを神の恩寵として感じている。その彼らはまた処女の神聖・・・ 和辻哲郎 「『偶像再興』序言」
出典:青空文庫