・・・ 富士駅附近へ来ると極めて稀に棟瓦の一、二枚くらいこぼれ落ちているのが見えた。興津まで来ても大体その程度らしい。なんだかひどく欺されているような気がした。 清水で下車して研究所の仲間と一緒になり、新聞で真先に紹介された岸壁破壊の跡を・・・ 寺田寅彦 「静岡地震被害見学記」
・・・ このあたりの景色北斎が道中画譜をそのままなり。興津を過ぐる頃は雨となりたれば富士も三保も見えず、真青なる海に白浪風に騒ぎ漁る船の影も見えず、磯辺の砂雨にぬれてうるわしく、先手の隧道もまた画中のものなり。 此処小駅ながら近来海水浴場・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・ここが興津か。この家か、去年の秋移ろうかといったのは。なるほどこれなら眺望がいいだろう。」「先生お目出とう御座います。/\/\/\/\。」「ヤアお目出とう御座います。諸君お揃いで。」「今東京から電報が来たもんですからお出迎えに来たのです。」・・・ 正岡子規 「初夢」
森鴎外の「歴史もの」は、大正元年十月の中央公論に「興津彌五右衛門の遺書」が載せられたのが第一作であった。そして、斎藤茂吉氏の解説によると、この一作のかかれた動機は、その年九月十三日明治大帝の御大葬にあたって乃木大将夫妻の殉・・・ 宮本百合子 「鴎外・芥川・菊池の歴史小説」
・・・ 令子は海面に砕ける月を見たい心持になって来た。月の光にはいつもほのかな香いがあるが、秋の潮は十六夜の月に高く重吹くに違いない。 令子は興津行の汽車に乗った。 勝浦のトンネルとトンネルの間で、丁度昇りかけようとする月をちらりと見・・・ 宮本百合子 「黒い驢馬と白い山羊」
・・・ 某祖父は興津右兵衛景通と申候。永正十一年駿河国興津に生れ、今川治部大輔殿に仕え、同国清見が関に住居いたし候。永禄三年五月二十日今川殿陣亡遊ばされ候時、景通も御供いたし候。年齢四十一歳に候。法名は千山宗及居士と申候。 父才八は永禄元・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
・・・某致仕候てより以来、当国船岡山の西麓に形ばかりなる草庵を営み罷在候えども、先主人松向寺殿御逝去遊ばされて後、肥後国八代の城下を引払いたる興津の一家は、同国隈本の城下に在住候えば、この遺書御目に触れ候わば、はなはだ慮外の至に候えども、幸便を以・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
出典:青空文庫