・・・しかしMはいつのまにか湯帷子や眼鏡を着もの脱ぎ場へ置き、海水帽の上へ頬かぶりをしながら、ざぶざぶ浅瀬へはいって行った。「おい、はいる気かい?」「だってせっかく来たんじゃないか?」 Mは膝ほどある水の中に幾分か腰をかがめたなり、日・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・洋一はすぐに飛び起きた。 すると梯子の上り口には、もう眼の悪い浅川の叔母が、前屈みの上半身を現わしていた。「おや、昼寝かえ。」 洋一はそう云う叔母の言葉に、かすかな皮肉を感じながら、自分の座蒲団を向うへ直した。が、叔母はそれは敷・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・大事な妹を置きっぱなしにして来たのがたまらなく悲しくなりました。 その時Mが遥かむこうから一人の若い男の袖を引ぱってこっちに走って来ました。私はそれを見ると何もかも忘れてそっちの方に駈け出しました。若い男というのは、土地の者ではありまし・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・はね起きて追いにかかると一目散に逃げたと思った女は、反対に抱きついて来た。二人は互に情に堪えかねてまた殴ったり引掻いたりした。彼れは女のたぶさを掴んで道の上をずるずる引張って行った。集会所に来た時は二人とも傷だらけになっていた。有頂天になっ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
ずっと早く、まだ外が薄明るくもならないうちに、内じゅうが起きて明りを附けた。窓の外は、まだ青い夜の霧が立ち籠めている。その霧に、そろそろ近くなって来る朝の灰色の光が雑って来る。寒い。体じゅうが微かに顫える。目がいらいらする。無理に早く・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 本堂正面の階に、斜めに腰掛けて六部一人、頭より高く笈をさし置きて、寺より出せしなるべし。その廚の方には人の気勢だになきを、日の色白く、梁の黒き中に、渠ただ一人渋茶のみて、打憩ろうていたりけり。 その、もの静に、謹みたる状して俯向く・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・ 渠が寝られぬ短夜に……疲れて、寝忘れて遅く起きると、祖母の影が見えぬ…… 枕頭の障子の陰に、朝の膳ごしらえが、ちゃんと出来ていたのを見て、水を浴びたように肝まで寒くした。――大川も堀も近い。……ついぞ愚痴などを言った事のない祖母だ・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・家族には近い知人の二階屋に避難すべきを命じ置き、自分は若い者三人を叱して乳牛の避難にかかった。かねてここと見定めて置いた高架鉄道の線路に添うた高地に向って牛を引き出す手筈である。水深はなお腰に達しないくらいであるから、あえて困難というほどで・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ 一人の若い衆は起きられないという。一人は遊びに出て帰って来ないという。自分は蹶起して乳搾りに手をかさねばならぬ。天気がよければ家内らは運び来った濡れものの仕末に眼の廻るほど忙しい。 家浮沈の問題たる前途の考えも、措き難い目前の仕事・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・お次にねて居た女達は事がすんでから起きて「マアマア是は何と云う」と云って歎いてもどうしようもないので小吟の逃げたあとを人をおっかけさせたけれ共女ながらも上手ににげてどうしてもその行方がわからない。人々は「女ながら中々上手に逃げたものだ」と云・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
出典:青空文庫