・・・それがたび重なると、笑顔の美しいことも、耳の下に小さい黒子のあることも、こみ合った電車の吊皮にすらりとのべた腕の白いことも、信濃町から同じ学校の女学生とおりおり邂逅してはすっぱに会話を交じゆることも、なにもかもよく知るようになって、どこの娘・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・彼の会話の断片を基にしたジャーナリストの評論や、またそれの下手な受売りにどれだけの信用が措けるかは疑問である。ただ煙の上がる処に火があるというあまりあてにならない非科学的法則を頼みにして、少しばかりの材料をここに紹介する。 彼の人間に対・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・日常の会話にも下がかった事を軽い可笑味として取扱い得るのは日本文明固有の特徴といわなければならない。この特徴を形造った大天才は、やはり凡ての日本的固有の文明を創造した蟄居の「江戸人」である事は今更茲に論ずるまでもない。もし以上の如き珍々先生・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・それからまたこんな会話を二、三度取りかわしたが、いつでもそのあいだに妙な穴ができた。自分はこの穴を故意にこしらえているような感じがした。けれども重吉にはそんなわだかまりがないから、いくら口数を減らしてもその態度がおのずから天然であった。しま・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・それらの話や会話は、耳の聴覚で聞くよりは、何かの或る柔らかい触覚で、手触りに意味を探るというような趣きだった。とりわけ女の人の声には、どこか皮膚の表面を撫でるような、甘美でうっとりとした魅力があった。すべての物象と人物とが、影のように往来し・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・譬えば、上等の士族が偶然会話の語次にも、以下の者共には言われぬことなれどもこの事は云々、ということあり。下等士族もまた給人分の輩は知らぬことなれども彼の一条は云々、とて、互に竊に疑うこともあり憤ることもありて、多年苦々しき有様なりしかども、・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・なにがそんなにおまえを切なくするのか、高が樺の木と狐との野原の中でのみじかい会話ではないか、そんなものに心を乱されてそれでもお前は神と云えるか、土神は自分で自分を責めました。狐が又云いました。「ですから、どの美学の本にもこれくらいのこと・・・ 宮沢賢治 「土神ときつね」
・・・ 発表当時、会話が棒ではじまっていたり、くせのあるてにをはがつかってあったりした部分は、不必要な漢字と一しょにこのたび訂正されている。当時伏字にされて今日ではうずめられないところは、その要旨を附記してそのままにされている。終りには「社会・・・ 宮本百合子 「あとがき(『モスクワ印象記』)」
・・・わせると、散文は自己自身と他からの働きかけとの間の調整を求めるのを法則としていて、従って外的ないろいろな力に追いまわされもするものであるが、歌・詩は、自己の均衡の上に築かれていて自身の諸部分のあいだに諧和を求めるもの、従って歌は人間の救われ・・・ 宮本百合子 「作品のよろこび」
・・・それは大学を卒業した頃から、西洋へ立つ時までの、何か物を案じていて、好い加減に人に応対していると云うような、沈黙勝な会話振が、定めてすっかり直って帰ったことと思っていたのに、帰った今もやはり立つ前と同じように思われたのである。 新橋へ著・・・ 森鴎外 「かのように」
出典:青空文庫