・・・そしてしゃ嗄れた、胸につまったような声で、何事かしきりに云っているのであった。顔いっぱいに暑い日が当って汚れた額の創のまわりには玉のような汗が湧いていた。 よく聞いてみるとある会社の職工であったが機械に喰い込まれて怪我をしたというのであ・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・水電の堰堤が破れても同様な犠牲を生じるばかりか、都市は暗やみになり肝心な動力網の源が一度に涸れてしまうことになる。 こういうこの世の地獄の出現は、歴史の教うるところから判断して決して単なる杞憂ではない。しかも安政年間には電信も鉄道も電力・・・ 寺田寅彦 「天災と国防」
・・・もちろん涸れた川には流れの音のあるはずもなかった。「わたしはこの草の中から、月を見ているのが好きですよ」彼は彼自身のもっている唯一の詩的興趣を披瀝するように言った。「もっと暑くなると、この草が長く伸びましょう。その中に寝転んで、草の・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・ふみ江は嗄れたような声でぐずっている子供をすかしながら答えた。 ふみ江の良人の家は在方であったが、学校へ通っている良人の青木は、町に下宿していたけれど、ふみ江は青木の親たちの方にいることになっていた。「子供はどうなんだ。脚が悪いそう・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・後に知ったことであるが、仮名垣魯文の門人であった野崎左文の地理書に委しく記載されているとおり、下総の国栗原郡勝鹿というところに瓊杵神という神が祀られ、その土地から甘酒のような泉が湧き、いかなる旱天にも涸れたことがないというのである。 石・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・すると始めは極く低い皺嗄れた声が次第次第に専門的な雄弁に代って行く。「……あれえッという女の悲鳴。こなたは三本木の松五郎、賭場の帰りの一杯機嫌、真暗な松並木をぶらぶらとやって参ります……」 話が興味の中心に近いて来ると、いつでも爺さ・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・水入は底の光るほど涸れている。西へ廻った日が硝子戸を洩れて斜めに籠に落ちかかる。台に塗った漆は、三重吉の云ったごとく、いつの間にか黒味が脱けて、朱の色が出て来た。 自分は冬の日に色づいた朱の台を眺めた。空になった餌壺を眺めた。空しく橋を・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・ 主として、冬は川が涸れる。川の水が涸れないと、川の中の発電所の仕事はひどくやり難い。いや、殆んど出来ない。一冬で出来上らないと、春、夏、秋を休んで、又その次の冬でないと仕事が出来ない。 一冬で、巨大な穴、数万キロの発電所の掘鑿をや・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・ あらゆる監房からは、元気のいい声や、既に嗄れた声や、中にはまったく泣声でもって、常人が監獄以外では聞くことのできない感じを、声の爆弾として打ち放った。 これ等の声の雑踏の中に、赤煉瓦を越えて向うの側から、一つの演説が始められた。・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・蕪村の句多からずといえども、楊州の津も見えそめて雲の峰雲の峰四沢の水の涸れてより 旅意二十日路の背中に立つや雲の峰のごとき皆十分の力あるを覚ゆ。五月雨は芭蕉にも五月雨の雲吹き落せ大井川 芭蕉五月雨・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
出典:青空文庫