・・・さっきの汽車がまだあそこにいる。釜のない煙筒のない長い汽車を、支那苦力が幾百人となく寄ってたかって、ちょうど蟻が大きな獲物を運んでいくように、えっさらおっさら押していく。 夕日が画のように斜めにさし渡った。 さっきの下士があそこに乗・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・なんとかいう記者は、君の大きな体格を見て、その予想外なのに驚いたというからね」 「そうですかナ」と、杉田はしかたなしに笑う。 「少女万歳ですな!」 と編集員の一人が相槌を打って冷やかした。 杉田はむっとしたが、くだらん奴・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・おれは「巴里へ行く汽車は何時に出るか」と問うてみた。 停車場へ出掛けた。首尾よく不喫烟室に乗り込むまではよかったが、おれはそこで捕縛せられた。 おれは五時間の予審を受けた。何もかも白状した。しかし裁判官達には、おれがなぜそんな事をし・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・しかし彼の旅行は単に月並な名所や景色だけを追うて、汽車の中では居眠りする亜類のではなくて、何の目的もなく野に山に海浜に彷徨するのが好きだという事である。しかし彼がその夢見るような眼をして、そういう処をさまよい歩いている間に、どんな活動が彼の・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・一昨年来急に世界的に有名になってから新聞雑誌記者は勿論、画家彫刻家までが彼の門に押しよせて、肖像を描かせろ胸像を作らしてくれとせがむ。講義をすまして廊下へ出ると学生が押しかけて質問をする。宅へ帰ると世界中の学者や素人から色々の質問や註文の手・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・無論記事の全責任は記者すなわち著者にあることが特に断ってある。 一体人の談話を聞いて正当にこれを伝えるという事は、それが精密な科学上の定理や方則でない限り、厳密に云えばほとんど不可能なほど困難な事である。たとえ言葉だけは精密に書き留めて・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・この像の仕上げのために喜捨を募るという張り札がしてある。回廊の引っ込んだ所には、僧侶が懺悔をきく所がいくつもある。一昨年始めてイタリアのお寺でこの懺悔をしているところを見ていやな感じがしてから、この仕掛けを見るごとに僧侶を憎み信徒をかわいく・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・その上防波堤へ上がって、砂ぶかい汽車や電車の軌道ぞいの往来へあがってみると、高台の方には、単調な松原のなかに、別荘や病院のあるのが目につくだけで、鉄拐ヶ峰や一の谷もつまらなかった。私は風光の生彩をおびた東海の浜を思いださずにはいられなかった・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・――土堤道のつきる遠くで停車場の方から汽車の汽笛がきこえていたが、はやる心はなかった。ハンチングをかぶった学生のボルの姿は、ただひとつの道しるべだったけれど、小野たちとはべつな東京で、すぐ明日からも働き場所をめっけて、故郷に仕送りしなければ・・・ 徳永直 「白い道」
・・・此処に停車場を建てて汽車の発着する処となしたのは上野公園の風趣を傷ける最大の原因であった。上野の停車場及倉庫の如きは其の創設の当初に於て水利の便ある秋葉ヶ原のあたりを卜して経営せられべきものであった。然し新都百般の経営既に成った後之を非難す・・・ 永井荷風 「上野」
出典:青空文庫