・・・はるばるの長旅、ここまでは辿り着いたが、途中で煩った為に限りある路銀を費い尽して了った。道は遠し懐中には一文も無し、足は斯の通り脚気で腫れて歩行も自由には出来かねる。情があらば助力して呉れ。頼む。斯う真実を顔にあらわして嘆願するのであった。・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・ しかしこんなことは畢竟ずるに私の知識の届く限りで造り上げた仮の人生観たるに過ぎない。これがわかったために私の実行的生活が変動するわけでも何でもない。のみならず現にその知識みずからが、まだこの上幾らでも難解の疑問を提出して休まない。自己・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・おものも申さで立ち候こと本意なき限りに存じまいらせ候。なにとぞお許しくだされたく候。 これは足を洗いながら自分が胸の中で書いた手紙である。そして実際にこんな手紙が残してあるかもしれないと思う。出ようとする間ぎわに、藤さんはとんとんと・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・おや、このランプの心の切りようはどうだい」なんぞというのよ。それから歩いているうちに床板の透間から風が吹き込むでしょう。そうすると足がつめたくなるもんだからそういうの。「おう、つめたい。馬鹿めが煖炉に火を絶やしやあがったな」なんかんというの・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・声も美しくエス・キリスト、さては天国の歓喜をほめたたえて、重荷に苦しむものや、浮き世のつらさの限りをなめたものは、残らず来いとよび立てました。 おばあさんはそれを聞きましたが、その日はこの世も天国ほどに美しくって、これ以上のものをほしい・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・生れ落るとから、唇の戦きほか言葉を持たずに来たものは、表し方に限りがなく、海のように深く、曙、黄昏が光りや影を写す天のように澄んだ眼の言語をならいました。唖は、自然が持っているような、寂しい壮麗さを持っているのです。其故、他の子供達は、スバ・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・と私が強く言いましたら、にやっと笑って、それではこの次まであずかって置いて下さい、また来ます、と言って帰りましたが、奥さん、私どもがあのひとからお金をいただいたのは、あとにもさきにも、ただこの時いちど切り、それからはもう、なんだかんだとごま・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・佐竹の顔は肌理も毛穴も全然ないてかてかに磨きあげられた乳白色の能面の感じであった。瞳の焦点がさだかでなく、硝子製の眼玉のようで、鼻は象牙細工のように冷く、鼻筋が剣のようにするどかった。眉は柳の葉のように細長く、うすい唇は苺のように赤かった。・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・ ピンからキリまであるものだな。」「住んでいた家が、ばかに大きかったんだそうです。戦災で全焼していまは落ちぶれたんだそうですけどね、何せ帝都座と同じくらいの大きさだったというんだから、おどろきますよ。よく聞いてみると、何、小学校なんです・・・ 太宰治 「眉山」
・・・伏目につつましく控えている碧い神経質な鋭い目も、官能的な桜桃色の唇も相当なものである。肌理の細かい女のような皮膚の下から綺麗な血の色が、薔薇色に透いて見える。黒褐色の服に雪白の襟と袖口。濃い藍色の絹のマントをシックに羽織っている。この画は伊・・・ 太宰治 「もの思う葦」
出典:青空文庫