・・・「あの頃の貴婦人はね、宮殿のお庭や、また廊下の階段の下の暗いところなどで、平気で小便をしたものなんだ。窓から小便をするという事も、だから、本来は貴族的な事なんだ。」「お酒お飲みになるんだったら、ありますわ。貴族は、寝ながら飲むんでし・・・ 太宰治 「朝」
・・・大石橋の戦争の前の晩、暗い闇の泥濘を三里もこねまわした。背の上から頭の髪まではねが上がった。あの時は砲車の援護が任務だった。砲車が泥濘の中に陥って少しも動かぬのを押して押して押し通した。第三聯隊の砲車が先に出て陣地を占領してしまわなければ明・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・貧苦に沈んだ暗い声ではなくて勢いのある猛獣の吼声のようである。いつも恐ろしく真面目な顔をして煙草をふかしながら沖の方を見ている。怒っているのかと始めは思ったがそうではないらしい。いつ見ても変らぬ、これが熊さんの顔なのであろう。 始めはこ・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・桂三郎は暗い松原蔭の道へと入っていった。そしてそこにも、まだ木香のするような借家などが、次ぎ次ぎにお茶屋か何かのような意気造りな門に、電燈を掲げていた。 私たちは白い河原のほとりへ出てきた。そこからは青い松原をすかして、二三分ごとに出て・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・しかし利平は黙って答えないが、いうまでもなく、それは今朝、留置場から放免されて帰って来た争議団員たちを、他の者たちが歓迎しているのだ 利平は驚いた。暗い処に数十日をぶち込まれた筈の彼等の、顔色の何処にそんな憂色があるか! 欣然と、恰も、・・・ 徳永直 「眼」
一 小庭を走る落葉の響、障子をゆする風の音。 私は冬の書斎の午過ぎ。幾年か昔に恋人とわかれた秋の野の夕暮を思出すような薄暗い光の窓に、ひとり淋しく火鉢にもたれてツルゲネーフの伝記を読んでいた。 ツルゲネーフはまだ物心もつ・・・ 永井荷風 「狐」
・・・窓を射る日の眩ゆきまで明かなるに、室のうちは夏知らぬ洞窟の如くに暗い。輝けるは五尺に余る鉄の鏡と、肩に漂う長き髪のみ。右手より投げたる梭を左手に受けて、女はふと鏡の裡を見る。研ぎ澄したる剣よりも寒き光の、例ながらうぶ毛の末をも照すよと思うう・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・あの小さな狡猾さうな眼をした、梟のやうな哲学者ショーペンハウエルは、彼の暗い洞窟の中から人生を隙見して、無限の退屈な欠伸をしながら、厭がらせの皮肉ばかりを言ひ続けた。一方であの荒鷲のやうなニイチェは、もつと勇敢に正面から突撃して行き、彼の師・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・それが暗い吹雪の夜は、況して荒涼たる景色であった。 二人の子供は、コムプレッサー、鍛冶場、変電所、見張り、修繕工場、などを見て歩いたが、その親たちは見当らなかった。 深い谷底のような、掘鑿に四つの小さい眼が注がれた。坑夫の子供ではあ・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・あなたの方からは見えませんのですが、わたくしは暗い方にいましたからあなたをはっきり見ることが出来ました。決してわたくしが陰険な事をいたしたとか、あなたを羂に掛けたとかお思いになってはいけません。わたくしは戸を開けるつもりで戸の傍に歩み寄って・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
出典:青空文庫