・・・しかし、指紋をとる、ということは、あたりまえの生活にあるべきことではない。刑事訴訟法二一八条二項に――容疑者の身柄を拘束した場合にのみ、強制的に指紋を採ることができる、とある。したがって、指紋と犯罪の容疑とは密着したものである。泡盛によっぱ・・・ 宮本百合子 「指紋」
・・・日本の十数万人の旧治安維持法の被害者はもちろん、涜職、詐欺、窃盗、日本の法律によってとりしらべられたすべての人々で、刑事や検事からこの言葉をきかされなかった者はおそらく一人もないだろう。法学博士で大臣だった三土忠造でさえ、一九二九年か三〇年・・・ 宮本百合子 「それに偽りがないならば」
・・・歩に対してロシアの社会の封建制、ギリシア正教がどのようにおくれたものであったか、そして、そのために民衆の想像力はどのような形で迷信に縛りつけられていたかということを、今日の読者である我々に驚きをもって啓示するのである。 靴屋の小僧を・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・続いて刑事係が来る。警察署長が来る。気絶しているお花を隣の明間へ抱えて行く。狭い、長い廊下に人が押し合って、がやがやと罵る。非常な混雑であった。 四畳半には鋭利な刃物で、気管を横に切られたお蝶が、まだ息が絶えずに倒れていた。ひゅうひゅう・・・ 森鴎外 「心中」
・・・立場である。刑事のごとき特殊の技能を持ったものでなければ、警衛としてはなんの役にも立たぬ。こういう方法を取るために田舎から出て来て東京をうろつくのが臣民として忠であるか、それとも落ち着いて自分の任務をつくすのが忠であるか、――もちろん後者で・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
・・・我々は生を凝視することによって恐らく知り難い秘密の啓示を恵まれる事もあるだろう。 昨夜私は急用のために茂った松林の間の小径を半ば馳けながら通った。冷たい夜気が烈しく咽を刺激する。一つの坂をおりきった所で、私は息を切らして歩度を緩めた。前・・・ 和辻哲郎 「創作の心理について」
・・・分ぐらい遅れる事はあるし、自分の時計だって一分ぐらい進んでいないとは限らないなどと思いながら停車場へはいって行くと、そこの大時計はちょうど汽車よりも二分先へ出ていて、駅夫が次の汽車の時間を改札口の上に掲示している所であった。「あああと一・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
・・・しかしながら内心にひそむ芸術心なきもの、審美の情なき者は自然の大景よりこの啓示を得ない。彼らには滝は珍であり山は奇たるにとどまる。その境地に誘うためには霊を開拓せねばならぬ。開拓の鍵となるものは芸術である。芸術はかくして吾人の渇仰を充たすべ・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫