・・・これを思えば、今の民権論者が不平を鳴らすその間に、識らず知らずしてその分界を踏出し、あるいは他より来りてその界を犯し、不平の一点において、かの守旧家と一時の抱合をなすのおそれなしというべからず。理をもって論ずれば、万々心配なきが如くなれども・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・(家来ランプを点して持ち来り、置いて帰り行ええ、またこの燈火が照すと、己の部屋のがらくた道具が見える。これが己の求める物に達する真直な道を見る事の出来ない時、厭な間道を探し損なった記念品だ。この十字架に掛けられていなさる耶蘇殿は定めて身に覚・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・その歌、『古今』『新古今』の陳套に堕ちず真淵、景樹のかきゅうに陥らず、『万葉』を学んで『万葉』を脱し、鎖事俗事を捕え来りて縦横に馳駆するところ、かえって高雅蒼老些の俗気を帯びず。ことにその題目が風月の虚飾を貴ばずして、ただちに自己の胸臆をし・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・日光来りて葉緑を照徹すれば葉緑黄金を生ずるじゃ。讃うべきかな神よ。」(将軍籠にくだものを盛りて出で来る。手帳を出しすばやく何か書きつく、特務曹長に渡す、順次列中に渡る、唱バナナン大将の行進歌合唱「いさおかがやく バナナン・・・ 宮沢賢治 「饑餓陣営」
・・・を、過去の作品としてうしろへきつく蹴り去ることで、それを一つの跳躍台として、より急速な、うしろをふりかえることない前進をめざす状態だった。 一九三二年の春から、うちつづく検挙と投獄がはじまった。その期間に作者はしばしば一人の人間、女とし・・・ 宮本百合子 「あとがき(『二つの庭』)」
・・・あり来りの返事をしたってはじまらない。そういう才覚もあるひととも思える。 それならそれとして、やっぱりあれは私たちを考えさせる一ことであった。あのひとが、その映画のなかでよかったらそれでいい、と好きという表現をそらした心理をさぐってみれ・・・ 宮本百合子 「女の歴史」
・・・は自主性を失って文学の外の力に己を託した日以来、下へ下へと坂を転り、その転る運動を文学の時代的反応の当然の動きであるかのように偽装しながら、この年に入っては、遂に文学性などというものに煩わされる心情を蹴り捨てた一種の作品が流行した。「結婚の・・・ 宮本百合子 「昭和の十四年間」
・・・そして殴ったりし、蹴りもした。私にだけそんなことをした。私の困るようなことを見つけるのがうまくて、ああ困ったと思うと私はすぐ、その弟の大の男並に脊丈と力のある体と、肉の厚い怒った顔つきを思い合わせ、告げ口されることを思って閉口するのであった・・・ 宮本百合子 「青春」
・・・ 茶っぽい帯の傍からうす色の帯上げが少しのぞいて白い足袋に蹴り上げられる絹の裾が陰の多い襞を作るのを篤は静かに見て居た。 貴方随分暢気らしい方だ。 千世子は向うの隅から両手を組合わせてズーッと下にのばしてこっちに歩きなが・・・ 宮本百合子 「千世子(三)」
・・・ 幸雄が藻掻けば藻掻くほど、腕を捉えている手に力が入ると見え、彼は顔を顰め全身の力で振りもぎろうとしつつ手塚と医員とを蹴り始めた。朝日を捨てて、詰襟の男が近よった。「おい、若いの、頼む、押えつけてくんな」 そのときは桁の上に登っ・・・ 宮本百合子 「牡丹」
出典:青空文庫