・・・やや鳶色の口髭のかげにやっと犬歯の見えるくらい、遠慮深そうに笑ったのである。「君は何しろ月給のほかに原稿料もはいるんだから、莫大の収入を占めているんでしょう。」「常談でしょう」と言ったのは今度は相手の保吉である。それも粟野さんの言葉・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・鼠は慣れていると見えて、ちょこちょこ、舞台の上を歩きながら、絹糸のように光沢のある尻尾を、二三度ものものしく動かして、ちょいと後足だけで立って見せる。更紗の衣裳の下から見える前足の蹠がうす赤い。――この鼠が、これから雑劇の所謂楔子を演じよう・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・弥三左衛門は、その首を手にとって、下から検使の役人に見せた。頬骨の高い、皮膚の黄ばんだ、いたいたしい首である。眼は勿論つぶっていない。 検使は、これを見ると、血のにおいを嗅ぎながら、満足そうに、「見事」と声をかけた。 ・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・その草の中を、あたかも、ひらひら、と、ものの現のように、いま生れたらしい蜻蛉が、群青の絹糸に、薄浅葱の結び玉を目にして、綾の白銀の羅を翼に縫い、ひらひら、と流の方へ、葉うつりを低くして、牡丹に誘われたように、道を伝った。 またあまりに儚・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・撫子 この細りした、(一輪を指絹糸のような白いのは、これは、何と云う名の菊なんですえ。りく 何ですか、あの……糸咲々々ってお父さんがそう云いますよ。撫子 ああ、糸咲……の白菊……そうですか。りく そして、あのその撫子はお活け・・・ 泉鏡花 「錦染滝白糸」
・・・ 月の光が、しっとりと絹糸のように、空の下の港の町々の屋根を照らしています。そこの、果物屋には、店頭に、遠くの島から船に積んで送られてきた、果物がならんでいました。それらの果物の上にも、月の光が落ちるときに、果物は、はかない香りをたてて・・・ 小川未明 「港に着いた黒んぼ」
・・・ 坑内で死亡すると、町の警察署から検視の警官と医者が来るまで、そのまゝにして置かなければならない。その上、坑内で即死した場合、埋葬料の金一封だけではどうしてもすまされない。それ故、役員は、死者を重傷者にして病院へかつぎこませる。これが常・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・王女は、「いくにはいくけれど、それより先に、ちょっとこの絹糸のかせの中から、私を見つけ出してごらんなさい。」 こういって、じきそばのテイブルの上に、色んな色の絹糸のかせがつんであるのを指したかと思うと、いきなり姿を消してしまいました・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・真綿の切れに赤い絹糸の絡んだのが喰っついていたのである。藤さんはそれを手で揉みながら、「いいお天気ですね」という。いっしょに行ってみたいという念がそぶりに表われている。門を出しなに振り返ると、藤さんはまだうろうろと立っている。「お早・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・そんなにして坐っていて、わたしの顔を見ているその目付で、わたしの考えの糸を、丁度繭から絹糸を引き出すように手繰出すのだわ。その手繰出されたわたしの考えは疑い深い考えかも知れない。わたしにもよく思って見なくちゃあ分からないわ。一体お前さんはな・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
出典:青空文庫