・・・健二はひとりで憤慨する口吻になった。 親爺は、間を置いて、「われ、その仔はらみも放すつもりか?」と、眼をしょぼしょぼさし乍らきいた。「うむ。」「池か溝へ落ちこんだら、折角これだけにしたのに、親も仔も殺してしまうが……。」・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・こんなことになったのも、結局、為吉がはじめ息子を学校へやりたいような口吻をもらしたせいであるように、おしかは云い立てゝ夫をなじった。「まあそんなに云うない。今にあれが銭を儲けるようになったら、借金を返えしてくれるし、うら等も楽が出来るわ・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・それで上に残った者は狂人の如く興奮し、死人の如く絶望し、手足も動かせぬようになったけれども、さてあるべきではありませぬから、自分たちも今度は滑って死ぬばかりか、不測の運命に臨んでいる身と思いながら段下りてまいりまして、そうして漸く午後の六時・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・自分では興奮も何もしていないと云っていたし、身体の工合も顔色も別にそんなに変っていなかったが、約一年目に出てきたシャバは、矢張り知らずに彼を興奮させていたのだろう。 これは、田口の話である。別に小説と云うべきものでもない。 ・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・彼女はその昂奮を笑いに紛わして来た。「みんな、行って来るぞい」その言葉を養子夫婦にも、奉公人一同にも残して置いて来た。彼女の真意では、しばらく蜂谷の医院に養生した上で、是非とも東京の空まではとこころざしていた。東京には長いこと彼女の見ない弟・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・そして老人の興奮した、顫えるような息づかいを自分達の項に感じた。しかし誰が跡から付いて来ようと構わない。兎に角目的のない道行である。心の中には反抗的な忿懣のような思想が充ちている。よしや誰と連になろうが、その人に何物をも分けてやることは出来・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・このごろ人形の家をまた読み返し、重大な発見をして、頗る興奮した。ノラが、あのとき恋をしていた。お医者のランクに恋をしていたのだ。それを発見した。弟妹たちを呼び集めて、そのところを指摘し、大声叱咤、説明に努力したが、徒労であった。弟妹たちは、・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・「僕がしましょう。」興奮の余りに、上わ調子になった声で、チルナウエルが叫んだ。「その日数だけ休暇が貰えるかね。半年は掛かるよ。」中尉はこう云って、小さい銀行員を、頭から足まで見卸した。「ええ。僕がいないと、銀行で差支えるのですが・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
渠は歩き出した。 銃が重い、背嚢が重い、脚が重い、アルミニウム製の金椀が腰の剣に当たってカタカタと鳴る。その音が興奮した神経をおびただしく刺戟するので、幾度かそれを直してみたが、どうしても鳴る、カタカタと鳴る。もう厭になってしまっ・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・おれはこの出来事のために余程興奮して来たので、議会に行くことはよしにした。ぶらぶら散歩して、三十分もたってから、ちょうど歩いていたスプレエ川の岸から、例の包を川へ投げた。あたりを見廻しても人っ子一人いない。 晩までは安心して所々をぶらつ・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
出典:青空文庫