・・・神経のいらいらした者が、彼のような仕事をして、そしてそれが成効に近づいたとすればかなり興奮するにちがいない。勝手に仕事を途中で中止してのんきに安眠するという事は存外六ケしい事であるに相違ない。しかし彼は適当な時にさっさと切り上げて床につく、・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・日露戦争の時分には何でもロシアの方に同情して日本の連捷を呪うような口吻があったとかであるいは露探じゃないかという噂も立った。こんな事でひどく近所中の感じを悪くしたそうだが、細君の好人物と子供の可愛らしいのとで幾分か融和していたらしい。子供は・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・彼はいくらか興奮したような声で言った。 私たちは河原ぞいの道路をあるいていた。河原も道路も蒼白い月影を浴びて、真白に輝いていた。対岸の黒い松原蔭に、灯影がちらほら見えた。道路の傍には松の生い茂った崖が際限もなく続いていた。そしてその裾に・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・雪江が私の机の側へ来て、雑誌などを読んでいるときに、それとなく話しかける口吻によってみると、彼女には幾分の悶えがないわけにはいかなかった。学校を出てから、東京へ出て、時代の新しい空気に触れることを希望していながら、固定的な義姉の愛に囚われて・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・工場がえりの組合員たちは、弁当箱をひざにのせたまま居眠りしているのに、学生たちは興奮して怒鳴ったりしている。ひょうきんな浅川など、弁士が壇をおりたとき、喜んでしまって、帽子を会場の天井になげあげて、ブラボー、ブラボーと踊っている。深水や高坂・・・ 徳永直 「白い道」
・・・その頃にはエキゾチズムという語はまだ知ろうはずもなかったので、わたくしは官覚の興奮していることだけは心づいていながら、これを自覚しこれを解剖するだけの智識がなかったのである。 しかし日に日に経験する異様なる感激は、やがて朧ながらにも、海・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・お民の態度は法律の心得がなくては出来ないと思われるほど抜目がなく、又其の言うところは全然共産党党員の口吻に類するものがあった。 書肆博文館が僕に対して版権侵害の賠償を要求して来た其翌日である。正午すこし前、お民は髪を耳かくしとやらに結い・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・白痴の主人公は、愛情の昂奮に駆られた時、不意に対手の頭を擲ろうとする衝動が起り、抑えることが出来ないで苦しむのである。それを初めて読んだ時、まさしくこれは僕のことを書いたのだと思ったほどだ。僕は少年時代に黒岩涙香やコナン・ドイルの探偵小説を・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・――若しこの横われるものが、全裸の女でなくて全裸の男だったら、私はそんなにも長く此処に留っていたかどうか、そんなにも心の激動を感じたかどうか―― 私は何ともかとも云いようのない心持ちで興奮のてっぺんにあった。私は此有様を、「若い者が楽し・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 眼千両と言われた眼は眼蓋が腫れて赤くなり、紅粉はあわれ涙に洗い去られて、一時間前の吉里とは見えぬ。「どうだね、一杯」と、西宮は猪口をさした。吉里は受けてついでもらッて口へ附けようとした時、あいにく涙は猪口へ波紋をつくッた。眼を閉ッ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫