・・・香港、上海航路廻漕業の招牌が見える。橋を渡る。その間に、電車が一台すれ違って通った。人通りの稀な街路の、右手は波止場の海水がたぷたぷよせている低い石垣、左側には、鉄柵と植込み越しに永年風雨に曝された洋館の閉された窓々が、まばらに光る雨脚の間・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・二人青い着物に同色の靴の香炉持。後からヘンリー四世。緋の外套に宝石の沢山ついた首飾りをつける。栗色の厚い髪を金冠が押えて耳の下で髪のはじがまがって居る。後から多くの供人。王が大きい方の椅子に坐すと供人が後に立ち、香炉持ハ・・・ 宮本百合子 「胚胎(二幕四場)」
・・・ それは、この間うちつづけて読売新聞紙に載っていた「処女航路を行く女流作家」という紹介を見てもわかる。「処女航路を行く女流作家」というのはよんで字の通り商業的なジャーナリズムが自身の立場から新進の婦人作家を並べて、短い自己紹介の文章・・・ 宮本百合子 「プロレタリア婦人作家と文化活動の問題」
・・・後代になれば聖女めいた色彩は一層濃くされて、天上のものが人間界の呻吟のなかへあまくだった姿のように語られ描かれているが、フロレンス・ナイチンゲールの永い現実の生活は、はたしてそんな慈悲の香炉から立ちのぼる匂いのようなものであったろうか。人間・・・ 宮本百合子 「フロレンス・ナイチンゲールの生涯」
・・・志賀直哉の「暗夜行路」は青年から壮年にわたる日本の一知識人の内的過程を描いたものとして意義をもつものである。 それならば少年少女の心の生活は、日本においてはそんなに幸福で大人の世界との摩擦もなしにすくすくと伸びられていたのだろうか。その・・・ 宮本百合子 「若き精神の成長を描く文学」
・・・ 現代の若い男女のおかれている時代的な境遇というものを洞察して、その脈管にふれて多難な人生行路の上に力づけ、豊富にされた経験と分析とで、若い時代の生活建設に助力しようとする熱意からの恋愛論は、残念ながら少なすぎる。ある主観的な点の強調か・・・ 宮本百合子 「若き世代への恋愛論」
・・・この文壇の人々と予とは、あるいは全く接触点を闕いでいる、あるいは些の触接点があるとしても、ただ行路の人が彼往き我来る間に、忽ち相顧みてまた忽ち相忘るるが如きに過ぎない。我は彼に求むる所がなく、彼もまた我に求むる所がない。縦いまた樗牛と予との・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・ふうん、おっ母さんはこんな物を拝んだのですかと云って、ついと立って掛物の前に行って、香炉に立ててある線香を引っこ抜くのだ。己はどうするかと思って見ていたよ。そうすると、兄きは線香の燃えている尖を不動様の目の所に追っ附けて焼き抜きゃがるのだ。・・・ 森鴎外 「里芋の芽と不動の目」
・・・これらは兼良の没後数年にして起こったことであるが、世界の情勢からいうと、インド航路打通の運動がようやくアフリカ南端に達したころの出来事である。 このころ以後の民衆の思想を何によって知るかということは、相当重大な問題であるが、私はその材料・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫