・・・―― 小学校を卒業してから、林は町の中学校へあがり、私は工場の小僧になったから、しぜんと別れてしまったが、林のなつかしい、あの私が茄子を折って叱られているとき――小母さん、すみません――と詫びてくれた、温かい心が四十二歳になってもまだ忘・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・ もうそろそろ夜風の寒くなりかけた頃の晦日であったが、日が暮れたばかりのせいか、格子戸内の土間には客は一人もいず、鉄の棒で境をした畳の上には、いつも見馴れた三十前後の顔色のわるい病身らしい番頭が小僧に衣類をたたませていた。われわれは一先・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・ 一本歯の高足駄を穿いた下剃の小僧が「鮓じゃいやだ、幽霊を見せてくれたら、積んで見せらあ」と洗濯したてのタウエルを畳みながら笑っている。「幽霊も由公にまで馬鹿にされるくらいだから幅は利かない訳さね」と余の揉み上げを米噛みのあたりから・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・でも餓鬼大将の悪戯小僧は、必ず僕を見付け出して、皆と一緒に苛めるのだった。僕は早くから犯罪人の心理を知っていた。人目を忍び、露見を恐れ、絶えずびくびくとして逃げ回っている犯罪者の心理は、早く既に、子供の時の僕が経験して居た。その上僕は神経質・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・「サア、早く遁げよう! そして病院へ行かなけりゃ」私は彼女に云った。「小僧さん、お前は馬鹿だね。その人を殺したんじゃあるまいね。その人は外の二三人の人と一緒に私を今まで養って呉れたんだよ、困ったわね」 彼女は二人の闘争に興奮して・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 俚諺にいわく、「門前の小僧習わぬ経を読む」と。けだし寺院のかたわらに遊戯する小童輩は、自然に仏法に慣れてその臭気を帯ぶるとの義ならん。すなわち仏の気風に制しらるるものなり。仏の風にあたれば仏に化し、儒の風にあたれば儒に化す。周囲の空気・・・ 福沢諭吉 「徳育如何」
・・・河へ出ている広い泥岩の露出で奇体なギザギザのあるくるみの化石だの赤い高師小僧だのたくさん拾った。それから川岸を下って朝日橋を渡って砂利になった広い河原へ出てみんなで鉄鎚でいろいろな岩石の標本を集めた。河原からはもうかげろうがゆらゆら立って向・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ゴーリキイが、はじめて、本をよむことを学んだのは、彼が十二三歳になってヴォルガ河通いの蒸汽船の皿洗い小僧になってからだった。同じ船に年配の、もののわかった船員がいて、一つの本をつめた箱をもっていた。彼は少年のゴーリキイと一緒に、自分の読み古・・・ 宮本百合子 「新しい文学の誕生」
・・・「門前の小僧は習わぬ経を誦む」鍛冶屋の嫁は次第に鉄の産地を知る。三郎が武術に骨を折るありさまを朝夕見ているのみか、乱世の常とて大抵の者が武芸を収める常習になっているので忍藻も自然太刀や薙刀のことに手を出して来ると、従って挙動も幾分か雄々・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・だが、その花の中から時々馬鹿げた小僧の顔がうっとりと現れる。その横の洋服屋では首のない人間がぶらりと下がり、主人は貧血の指先で耳を掘りながら向いの理亭の匂いを嗅いでいた。その横には鎧のような本屋が口を開けていた。本屋の横には呉服屋が並んでい・・・ 横光利一 「街の底」
出典:青空文庫