・・・ひっきょう、その本は、たがいに近づくべからざるの有様をもって、強いて相近づかんとし、たがいにその有様を誤解して、かえってますます遠隔敵視の禍を増すものというべし。 今世間の喋々を聞けば、一方の説にいわく、人民無智無法なるがゆえに政府これ・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・雖然どう考えても、例えば此間盗賊に白刃を持て追掛けられて怖かったと云う時にゃ、其人は真実に怖くはないのだ。怖いのは真実に追掛けられている最中なので、追想して話す時にゃ既に怖さは余程失せている。こりゃ誰でもそうなきゃならんように思う。私も同じ・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・その天鵝絨は物を中に詰めてふくらませてあって、その上には目を傷めるような強い色の糸で十文字が縫ってある。アラバステル石の時計がある。壁に塗り込んだ煖炉の上に燭台が載せてある。 ピエエル・オオビュルナンはこんな光景を再び目の前に浮ばせてみ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・今のように強い欲望があるからは、この世の物事に魂を打入れて見る事も出来よう。これからさき生かして置いてくれるなら、己は決して他の人間を物の言えぬ着物のように、または土偶か何かのように扱いはせぬ。どんな詰まらぬ喜でも、どんな詰らぬ歎でも、己は・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・それは貴方に怖い思をさせたり、貴方を窘めたりしようというのではございませぬ。譬えて申せば貴方が一杯の酒を呑乾しておしまいなさる時、その酒の香がいつか何処かであった嬉しさの香に似ていると思召すように、貴方が末期にわたくしの事を思い出して下され・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・しかるをなお強いて「戯れに」と題せざるべからざるもの、その裏面には実に万斛の涕涙を湛うるを見るなり。吁この不遇の人、不遇の歌。 彼と春岳との関係と彼が生活の大体とは『春岳自記』の文に詳なり。その文に曰く橘曙覧の家にいたる詞・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・何だか怖いようだ。よくあんなの食べるものだ。 *一千九百廿五年十月十六日一時間目の修身の講義が済んでもまだ時間が余っていたら校長が何でも質問していいと云った。けれども誰も黙っていて下を向いている・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ダーダーダーダーダースコダーダー 強い老人らしい声が剣舞の囃しを叫ぶのにびっくりして富沢は目をさました。台所の方で誰か三、四人の声ががやがやしているそのなかでいまの声がしたのだ。 ランプがいつか心をすっかり細められて障子・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・技法上の強いリアリスティックな構成力、企画性がこの製作者の発展の契機となっているのである。溝口氏が益々奥ゆきとリズムとをもって心理描写を行うようになり、ロマンティシズムを語る素材が拡大され、男らしい生きてとして重さ、明察を加えて行ったらば、・・・ 宮本百合子 「「愛怨峡」における映画的表現の問題」
・・・目をあげて見ると、空まで真暗にキリギシが聳えて居るのが堪らなく怖い。じっと竦んで、右を見、左を眺め廻した末、子供は恐ろしさに我慢が出来なくなって、涙をこぼし泣き乍ら、小さい拳で、広い地層を叩き出した。「よう! よーお!」 両方の絶壁・・・ 宮本百合子 「傾く日」
出典:青空文庫