・・・土間の皺が裂けるかと思う時、ひいても離れなかった名古屋の客の顔が、湯気を飛ばして、辛うじて上るとともに、ぴちぴちと魚のごとく、手足を刎ねて、どっと倒れた。両腋を抱いて、抱起した、その色は、火の皮の膨れた上に、爛が紫の皺を、波打って、動いたの・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・この手紙は牧師の二度と来ぬように、謂わば牧師を避けるために書く積りで書き始めたものらしい。煩悶して、こんな手紙を書き掛けた女の心を、その文句が幽かに照し出しているのである。「先日おいでになった時、大層御尊信なすっておいでの様子で、お話に・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・れた者の運命に違いないという気が強くされて―― 彼は、子供等が庭へ出て居り、また丁度細君も使いに行ってて留守だったのを幸い、台所へ行って擂木で出来るだけその凹みを直し、妻に見つかって詰問されるのを避ける準備をして置かねばならなかった。・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 肉体的耽溺を二人して避けるというようなことも、このより高きものによって慎しみ深くあろうとする努力である。道徳的、霊魂的向上はこうして恋愛のテーマとなってくる。二人が共同の使命を持ち、それを神聖視しつつ、二人の恋愛をこれにあざない合わせ・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・という性質にもなるので感情過多いわゆる水性ということは人生の離合の悲劇を避けるためには最もつつしまねばならぬことだからである。 それでは如何なる場合に合し如何なる場合に離れるべきか。そうした離合の拠るべき法則というものはないのか。それは・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・ 寒気が裂けるように、みしみし軋る音がした。 ペーチカへ、白樺の薪を放りこんだワーシカは、窓の傍によって聴き耳を立てた。二重硝子を透して遠くに、対岸の黒河の屋根が重い支那家屋の家なみが、黒く見えた。すべてがかたまりついた雪と氷ばかり・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・長い寒い夜なぞは凍み裂ける部屋の柱の音を聞きながら、唯もう穴に隠れる虫のようにちいさくなって居た。 この「冬」が私には先入主になってしまった。私はあの山の上で七度も「冬」を迎えた。私の眼に映る「冬」は唯灰色のものだった。巴里の方で逢った・・・ 島崎藤村 「三人の訪問者」
・・・ 避ける間隙も無かった。彼女は以前の夫の方を振向いた。大塚さんはハッと思って、見たような見ないような振をしながら、そのまま急ぎ足に通り過ぎたが、総身電気にでも打たれたように感じた。「おせんさん――」 と彼女の名を口中で呼んで・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・一度降ったら春まで溶けずにある雪の積もりに積もった庭に向いた部屋で、寒さのために凍み裂ける恐ろしげな家の柱の音なぞを聞きながら、夜おそくまでひとりで机にむかっていた時の心持ちは忘れられない。でも、私はあの山の上から東京へ出て来て見るたびに、・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・小走りに百姓家の軒下へ避ける。そこには土間で機を織っている。小声で歌を謡っている。「おおい」と言って馬を曳いた男が立ちどまる。藁の男は足早に同じ軒下へ避ける。馬は通り抜ける。蜜柑を積んでいる。 と、「まあ誰ぞいの」と機を織ってい・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
出典:青空文庫