・・・ いったいどこから浮かんで来た空想かさっぱり見当のつかない屍体が、いまはまるで桜の樹と一つになって、どんなに頭を振っても離れてゆこうとはしない。 今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めそう・・・ 梶井基次郎 「桜の樹の下には」
・・・』『少し風邪を引いて二日ばかり休みました』と自ら欺き人をごまかすことのできざる性分のくせに嘘をつけば、人々疑わず、それはそれはしかしもうさっぱりしたかねとみんなよりいたわられてかえってまごつき、『ありがとう、もうさっぱりとしました。・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・人々は、いまじゃ弘法大師もさっぱり睨みがきかなくなったと云って罰のバチがあたることを殆んど信じなくなっている。 黒島伝治 「海賊と遍路」
・・・二日ともさっぱり釣れない。そこで幾ら何でもちっとも釣れないので、吉公は弱りました。小潮の時なら知らんこと、いい潮に出ているのに、二日ともちっとも釣れないというのは、客はそれほどに思わないにしたところで、船頭に取っては面白くない。それも御客が・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・末子が何をしたのか、どうして次郎がそんなにまで平素のきげんをそこねているのか、さっぱりわからなかった。ただただ私は、まだ兄たち二人とのなじみも薄く、こころぼそく、とかく里心を起こしやすくしている新参者の末子がそこに泣いているのを見た。 ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・すると魚はどこへかくれているのか、いくらかきまわしても、さっぱり見つかりません。ぶくぶくはそれを見て、「おい、おどき。いいことがある。」と言いながら、長々をもとのからだにちぢめさせて、どぶんと泉の中へ入りました。そして、いきなり、ぷうぷ・・・ 鈴木三重吉 「ぶくぶく長々火の目小僧」
・・・兄は、その粋紳士風の趣味のために、おそろしく気取ってばかりいて、女のひとには、さっぱり好かれないようでした。そのころ高田の馬場の喫茶店に、兄が内心好いている女の子がありましたが、あまり旗色がよくないようで、兄は困って居りました。それでも、兄・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・ 去年の七月にはあんなにたくさんに池のまわりに遊んでいた鶺鴒がことしの七月はさっぱり見えない。そのかわりに去年はたった一匹しかいなかったあひるがことしは十三羽に増殖している。鴨のような羽色をしたひとつがいのほかに、純白の雌が一羽、それか・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・兄はそう言って、道太が思ったよりさっぱりしていた。 道太はやっと安心して、病室を出ることができたが、しかし次の部屋まで来ると、にわかに兄の歔欷が聞こえたので、彼は思わず足が竦んでしまった。 それから兄の傍を離れるのに、また少し時間が・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・赤いてがらは腰をかけ、両袖と福紗包を膝の上にのせて、「校友会はどうしちまったんでしょう、この頃はさっぱり会費も取りに来ないんですよ。」「藤村さんも、おいそがしいんですよ、きっと。何しろ、あれだけのお店ですからね。」「お宅さまでは・・・ 永井荷風 「深川の唄」
出典:青空文庫