・・・その下萌えの片笑靨のわずかに見えたる、情を含む眼のさりとも知らず動きたる、たおやかなる風采のさらに見過ごしがてなる、ああ、辰弥はしばし動き得ず。 折からこれも手拭を提げて、ゆるゆる二階を下り来るは、先ほど見たる布袋のその人、登りかけたる・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・何のことぞとお絹も少しは怪しく思いたれど、さりとて別に気にもとめざりしようなり。 その次の夜も次の夜も吉次の姿見えず、三日目の夜の十時過ぎて、いつもならば九時前には吉次の出て来るはずなるを、どうした事やらきのうも今日も油さえ売りにあるか・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・勿論例の主義という手製料理は大嫌ですが、さりとて肉とか薯とかいう嗜好にも従うことが出来ません」「それじゃア何だろう?」と井山がその尤もらしいしょぼしょぼ眼をぱちつかした。「何でもないんです、比喩は廃して露骨に申しますが、僕はこれぞと・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・……所労の身にて候へば、不足なる事も候はんずらん。さりながらも、日本国に、そこばくもてあつかうて候身を、九年迄御帰依候ひぬる御志、申すばかりなく候へば、いづくにて死に候とも、墓をば身延の沢にせさせ候べく候。又栗毛の御馬はあまりにおもしろく覚・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・御相図と承わり、又御物ごしが彼方様其儘でござりましたので、……如何様にも私を御成敗下さりまして、……又此方様は、私、身を捨てましても、御引取いただくよう願いまして、然よう致しますれば……」と、今まで泣伏していた間に考えていたものと見えて・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・面白くないということはないが、さりながら娯楽の目的には、ちと叶わないようなものである。同理別法で櫂釣というのを仕て居る人もある、此の方が多く獲れる。鉤を用いて鰻の夜釣をして居る人もある。時節によって鱸を釣ろうというので、夕方から船宿で船を借・・・ 幸田露伴 「夜の隅田川」
・・・「奥様はあんまり愛嬌が有り過ぎるんで御座いますよ、誰にでも好くしようと成さり過ぎるんで御座いますよ」と婆さんまでが言う位だった。でも食卓の周囲なぞは楽しくした方で、よくその食堂の隅のところに珈琲を研く道具を持出して、自分で煎ったやつをガリガ・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・「肉をどっさりやりましたら、とおしてくれました。」とウイリイは答えました。「それでは私の大男のいるところはどうしてとおりぬけたのです。」と王女は聞きました。「パンをどっさりやりました。」「毒蛇と竜の前は?」「みんなが寝て・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・おれが負ってやるっていうのに、さ、負さりなよ、ぐずぐずして居ないで負さりなよ。」 お母さんはためらって居る様子でした。妹さんも傍にほの白く立って居て、くすくす笑って居る様子でした。お母さんは誰も居ぬのにそっとあたりを見廻し、意を決して佐・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・だろう、と思い、そのおかみさんの親切を無にするのも苦しく、お礼を言ってその風呂敷を拾い、それから牛肉屋へ行って買い物をすまし、家へかえってからも、なんだか不思議で、帯をほどいてみると、黒い風呂敷が、ばさりと落ちた。私は、一時、途方にくれた。・・・ 太宰治 「春の盗賊」
出典:青空文庫