・・・三人の、大切な洋服を着た男は、糞に汚れた豚に僻易して二三歩あとすざりした。豚は彼等が通らせて呉れるのをいゝことにして外へ出てしまった。 一匹が跳ね、騒ぎだしたのにつれて、小屋中の豚が悉く、それぞれ呻き騒ぎだした。そうして、柵を突き倒して・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・何となく思浮めらるる言葉ではござりませぬか。 さてお話し致しますのは、自分が魚釣を楽んでおりました頃、或先輩から承りました御話です。徳川期もまだひどく末にならない時分の事でございます。江戸は本所の方に住んでおられました人で――本所と・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・と渋い声、砂利声、がさつ声、尖り声、いろいろの声で巻き立って頼み立てた。そして人々の頭は木沢の答のあるまでは上げられなかった。丹下はむずむずしきった。無論遊佐の見じろぎの様子一ツで立上るつもりである。「遊佐殿も方々も御手あげられて下・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・是れ何人に取っても満足すべき時に死せざれば、死に勝さる耻ありと、現に私は、其死所を得ざりし為めに、気の毒な生恥じを晒して居る多くの人々を見るのである。 一昨年の夏、露国より帰航の途中で物故した長谷川二葉亭を、朝野挙って哀悼した所であった・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・製造のほどもなくさらさらと衣の音、それ来たと俊雄はまた顫えて天にも地にも頼みとするは後なる床柱これへ凭れて腕組みするを海山越えてこの土地ばかりへも二度の引眉毛またかと言わるる大吉の目に入りおふさぎでござりまするのとやにわに打ちこまれて俊雄は・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・見ると、小砂利まじりの路の上を滑って来る重い音をさせて、食堂の前で自動車を横づけにする客なぞもあった。 新七はお力に手伝わせて、葦簾がこいにした休茶屋の軒下の位置に、母の食卓を用意した。揚物の油の音は料理場の窓越しにそこまで・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・私たちは、家の前の石段から坂の下の通りへ出、崖のように勾配の急な路についてその細い坂を上った。砂利が敷いてあってよけいに歩きにくい。私は坂の途中であとから登って来る娘のほうを振り返って見て、また路を踏んで行った。こうして親子三人のものが一緒・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・藁の男が入口に立ち塞って、自分を見て笑いながら、じりじりとあとしざりをして、背中の藁を中へ押しこめているのである。「暗いわいの」と女がいうと、「ふふふ」と男は笑っている。打とけた仲かもしれない。 ふたたび藤さんの事を考えつつ行く・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・しかして頭を下げたなりであとしざりをします。「私こわいママ」 と胸をどきつかせながらむすめが申します。「めぐみ深い在天の神様、私どもをお助けください」 と言って天の一方を見上げながらおかあさんがいのりますと、そこに蝶のような・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・何も別にお話する程の珍らしい事もございませぬが、本当に、いつもいつも似たような話で、皆様もうんざりしたでございましょうから、きょうは一つ、山椒魚という珍動物に就いて、浅学の一端を御披露しましょう。先日私は、素直な書生にさそわれまして井の頭公・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
出典:青空文庫