・・・ 牧野の妻はこう云うと、古びた肩掛に顔を隠しながら、突然しくしく泣き始めた。すると何故か黙っていたお蓮も、急に悲しい気がして来た。やっと金さんにも遇える時が来たのだ、嬉しい。嬉しい。――彼女はそう思いながら、それでも春着の膝の上へ、やは・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・お栄はそれを見ると同時に、急にこおろぎの鳴く声さえしない真夜中の土蔵が怖くなって、思わず祖母の膝へ縋りついたまま、しくしく泣き出してしまいました。が、祖母はいつもと違って、お栄の泣くのにも頓着せず、その麻利耶観音の御宮の前に坐りながら、恭し・・・ 芥川竜之介 「黒衣聖母」
・・・それから、胃がしくしく、痛む。とうてい彼のしゃべる英語を、いちいち理解するほど、神経を緊張する気になれない。 そのうちに、船が動きだした。それも、はなはだ、緩慢な動き方で、船と波止場との間の水が少しずつ幅を広くしていくから、わかるような・・・ 芥川竜之介 「出帆」
・・・妻はそれを心から淋しく思ってしくしくと泣いていた。物の三時間も二人はそうしたままで何もせずにぼんやり小屋の前で月の光にあわれな姿をさらしていた。 やがて仁右衛門は何を思い出したのかのそのそと小屋の中に這入って行った。妻は眼に角を立てて首・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・家にはいってから泣きやんでいた妹たちも、ぼくがしくしく泣きだすといっしょになって大きな声を出しはじめた。 ぼくたちはその家の窓から、ぶるぶるふるえながら、自分の家の焼けるのを見て夜を明かした。ぼくたちをおくとすぐまた出かけて行った橋本の・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・ といって僕を見なすったが、僕がしくしくと泣いているのに気がつくと、「まあ兄さんも弱虫ね」 といいながらお母さんも泣き出しなさった。それだのに泣くのを僕に隠して泣かないような風をなさるんだ。「兄さん泣いてなんぞいないで、お坐・・・ 有島武郎 「碁石を呑んだ八っちゃん」
・・・そして一言パパといったぎりで、私の膝によりかかったまましくしくと泣き出してしまう。ああ何がお前たちの頑是ない眼に涙を要求するのだ。不幸なものたちよ。お前たちが謂れもない悲しみにくずれるのを見るに増して、この世を淋しく思わせるものはない。また・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・燕はほとほとなんとお返事をしていいのかわからないでうつぶいたままでこれもしくしく泣きだしました。 王子はやがて涙をはらって、「ああこれは私が弱かった。泣くほど自分のものをおしんでそれを人にほどこしたとてなんの役にたつものぞ。心から喜・・・ 有島武郎 「燕と王子」
・・・ どかりと尻をつくと、鼻をすすって、しくしくと泣出した。 青い煙の細くなびく、蝋燭の香の沁む裡に、さっきから打ちかさねて、ものの様子が、思わぬかくし事に懐姙したか、また産後か、おせい、といううつくしい女一人、はかなくなったか、煩ろう・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・祝儀らしい真似もしない悲しさには、柔い粥とも誂えかねて、朝立った福井の旅籠で、むれ際の飯を少しばかり。しくしく下腹の痛む処へ、洪水のあとの乾旱は真にこたえた。鳥打帽の皺びた上へ手拭の頬かむりぐらいでは追着かない、早や十月の声を聞いていたから・・・ 泉鏡花 「栃の実」
出典:青空文庫