上 余が博士に推薦されたという報知が新聞紙上で世間に伝えられたとき、余を知る人のうちの或者は特に書を寄せて余の栄選を祝した。余が博士を辞退した手紙が同じく新聞紙上で発表されたときもまた余は故旧新知もしく・・・ 夏目漱石 「博士問題とマードック先生と余」
・・・見ると腹案の不充分であったためか、あるいは言い廻し方の不適当であったためか、そのままではほとんど紙上に載せて読者の一覧を煩わすに堪えぬくらい混雑している。そこでやむをえず全部を書き改める事にして、さて速記を前へ置いてやり出して見ると、至る処・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・三角形の幾何学的性質を究めるには紙上の一小三角形で沢山であるように、心霊上の事実に対しては英雄豪傑も匹夫匹婦と同一である。ただ眼は眼を見ることはできず、山にある者は山の全体を知ることはできぬ。此智此徳の間に頭出頭没する者は此智此徳を知ること・・・ 西田幾多郎 「愚禿親鸞」
・・・しかし流石にその二三の作品だけは、ニイチェでなければ書けない珠玉の絶唱で、世界文学史上にも特記さるべき名詩である。特に「今は秋、その秋の汝の胸を破るかな!」の悲壮な声調で始まつてる「秋」の詩。及び鴉等は鳴き叫び風を切りて町へ・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・或は尊み敬えと教うれば、舅姑は固より尊属目上の人なり、嫁の身として比教に従う可きは当然なれども、扨親しみ愛しむの一段に至りては、舅姑を先にして父母を後にせんとするも、子たる者の至情に於て叶わぬことならずや。論より証拠、世界古今に其例なきを如・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・この一段にいたりては、政府の人においても、学者の仲間においても、いやしくも愛国の念あらん者なれば、私情をさりてこれを考え、心の底にこれを愉快なりと思う者はなかるべし。 なおこれよりも禍の大なるものあり。前すでにいえる如く、我が国内の人心・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・ ある人云く、父母の至情、誰かその子の上達を好まざる者あらんや、その人物たらんを欲し、その学者たらんを願い、終に事実において然らざるは、父母のこれを欲せざるにあらず、他に千種万状の事情ありて、これに妨げらるればなり、故に子を教育するの一・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・口頭の談論は紙上の文章の如し。等しく文を記して同一様の趣意を述ぶるにも、其文に優美高尚なるものあり、粗野過激なるものあり、直筆激論、時として有力なることなきに非ざれども、文に巧なる人が婉曲に筆を舞わして却て大に読者を感動せしめて、或る場合に・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・其最親の人の最も尊敬し最も親愛する老父母即ち舅姑のことなれば、仮令い自分の父母に非ざるも、夫を思うの至情より割出して、之に厚うするは当然のことなり。夫の常に愛玩する物は犬馬器具の微に至るまでも之を大切にするは妻たる者の情ならずや。況んや譬え・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・即ち家に居り家族相互いに親愛恭敬して人生の至情を尽し、一言一行、誠のほかなくしてその習慣を成し、発して戸外の働きに現われて公徳の美を円満ならしむるものなり。古人の言に、忠臣は孝子の門に出ずといいしも、決して偶然にあらず。忠は公徳にして孝は私・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
出典:青空文庫