・・・ 家の者は、此知らない土地へ旅立つ為、種々仕度を調えました。スバーの心は、まるで靄に包まれた明方のように涙でしめりました。近頃、次第に募って来た、ぼんやりとした恐しさで、彼女は物の云えない獣のように、父や母につきまといました。大きな眼を・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・ということもないんだけど、君たちも、行かないかね、と心にも無い勧誘がふいと口から辷り出て、それからは騎虎の勢で、僕にね、五十円あるんだ、故郷の姉から貰ったのさ、これから、みんなで旅行に出ようよ、なに、仕度なんか要らない、そのままでいいじゃな・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・ 私はその人から晩ごはんのごちそうになるのはどうにも苦痛だったので、お昼ちょっと過ぎ、町はずれの彼の私宅にあやまりに行った。その日は日曜であったのだろう、彼は、ドテラ姿で家にいた。「晩餐会は中止にして下さい。どうも、考えてみると、こ・・・ 太宰治 「やんぬる哉」
・・・ 第二学年の学年試験の終わったあとで、その時代にはほとんど常習となっていたように、試験をしくじった同郷同窓のために、先生がたの私宅へ押しかけて「点をもらう」ための運動委員が選ばれた時、自分もその一員にされてしまった。そうしてそのためにも・・・ 寺田寅彦 「田丸先生の追憶」
・・・ もし東京市民が申し合せをして私宅の風呂をことごとく撤廃し、大臣でも職工でも皆同じ大浴場の湯気にうだるようにしたら、存外六ヶしい世の中の色々の大問題がヤスヤス解決される端緒にもなりはしまいか。こんな事を考えてみたこともある。 風呂場・・・ 寺田寅彦 「電車と風呂」
熊本第五高等学校在学中第二学年の学年試験の終わったころの事である。同県学生のうちで試験を「しくじったらしい」二三人のためにそれぞれの受け持ちの先生がたの私宅を歴訪していわゆる「点をもらう」ための運動委員が選ばれた時に、自分・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
朝食の食卓で偶然箱根行の話が持上がって、大急ぎで支度をして東京駅にかけつけ、九時五十五分の網代行に間に合った。二月頃から、一度子供連れで熱海へでも行ってみようと云っていたが、日曜というと天気が悪かったり、天気がいいと思うと・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・ 私は支度を急がせた。 雪江は鏡台に向かって顔を作っていたが、やがて派手な晴衣を引っぴろげたまま、隣の家へ留守を頼みに行ったりした。ちょうど女中が見つかったところだったが、まだ来ていなかった。「叔父さんのお蔭で、二人いっしょに遊・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・もう夕方だから早く廻らないと、どこの家でも夕飯の仕度がすんでしまって間にあわなくなる。しきりに気はあせるが、天秤棒は肩にめりこみそうに痛いし、気持も重くなって足もはかどらない。しまいには涙がでてきて、桶ごとこんにゃくも何もおっぽりだしたくな・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・先生はお妾が食事の仕度をしてくれる時のみではない。長火鉢の傍にしょんぼりと坐って汚れた壁の上にその影を映させつつ、物静に男の着物を縫っている時、あるいはまた夜の寝床に先ず男を寝かした後、その身は静に男の羽織着物を畳んで角帯をその上に載せ、枕・・・ 永井荷風 「妾宅」
出典:青空文庫