・・・そして、それを弾いている人は、けっして下手ではありませんでした。けれど、彼は、自分のおじいさんからもらった、バイオリンには、けっして、他のバイオリンにはない、音色の出ることを感じていました。「あのバイオリンじゃない。」 彼は、がっか・・・ 小川未明 「海のかなた」
・・・ 浜子は世帯持ちは下手ではなかったが、買物好きの昔の癖は抜けきれず、おまけに継子の私が戻ってみれば、明日からの近所の思惑も慮っておかねばならないし、頼みもせぬのに世話を焼きたがるおきみ婆さんの口も怖いと、生みの母親もかなわぬ気のよさを見・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・それを頭痛だとはなにごとかと、当然花嫁の側からきびしい、けれども存外ひそびそした苦情が持ちだされたのを、仲人が寺田屋の親戚のうちからにわかに親代りを仕立ててなだめる……そんな空気をひとごとのように眺めていると、ふとあえかな螢火が部屋をよぎっ・・・ 織田作之助 「螢」
・・・ 周文、崋山、蕭伯、直入、木庵、蹄斎、雅邦、寛畝、玉章、熊沢蕃山の手紙を仕立てたもの、団十郎の書といったものまであった。都合十七点あった。表装もみごとなものばかしであった。惣治は一本一本床の間の釘へかけて、価額表の小本と照し合わせていち・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ 川水は荒神橋の下手で簾のようになって落ちている。夏草の茂った中洲の彼方で、浅瀬は輝きながらサラサラ鳴っていた。鶺鴒が飛んでいた。 背を刺すような日表は、蔭となるとさすが秋の冷たさが跼っていた。喬はそこに腰を下した。「人が通る、・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・その島の小学児童は毎朝勢揃いして一艘の船を仕立てて港の小学校へやって来る。帰りにも待ち合わせてその船に乗って帰る。彼らは雨にも風にもめげずにやって来る。一番近い島でも十八町ある。いったいそんな島で育ったらどんなだろう。島の人というとどこか風・・・ 梶井基次郎 「海 断片」
・・・城下の者にて幸助を引取り、ゆくゆくは商人に仕立てやらんといいいでしがありしも、可愛き妻には死別れ、さらに独子と離るるは忍びがたしとて辞しぬ。言葉すくなき彼はこのごろよりいよいよ言葉すくなくなりつ、笑うことも稀に、櫓こぐにも酒の勢いならでは歌・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・『そうですね、しかしかえってこんな色の方がごまかされて描きよいかもしれません、』と小山は笑いながら答えた。『下手な画工が描きそうな景色というやつに僕は時々出あうが、その実、実際の景色はなかなかいいんだけれども。』『だから下手が飛・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・客間と食堂とを兼ねている部屋からは、いかにも下手でぞんざいな日本人のロシア語がもれて来た。「寒いね、……お前さん、這入ってらっしゃい。」 入口の扉が開いて、踵の低い靴をはいた主婦が顔を出した。 馭者は橇の中で腰まで乾草に埋め、頸・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・園子はやがて新しく仕立てた木綿入りの結城縞を、老人の前に拡げた。「まあ、それは、それは。――もうそなにせいでもえいのに。じいさん、えい着物をこしらえてくれたんじゃどよ。」「ほんとに、これをふだんにお召しなさいましな。」園子は、老人達・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
出典:青空文庫