・・・ こないな意気地なしになって、世の中に生きながらえとるくらいなら、いッそ、あの時、六カ月間も生死不明にしられた仲間に這入って、支那犬の腹わたになっとる方がましであった。それにしても、思い出す度にぞッとするのは、敵の砲弾でもない、光弾の光でも・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ 作から見れば夏目さんはさぞかし西洋趣味の人だったろうと想像する人もあるようだが、私の観たところでは全く支那趣味の人だった。夏目さんの座右の物は殆んど凡て支那趣味であった。 硝子のインキスタンドが大嫌いで、先生はわざわざ自身で考案し・・・ 内田魯庵 「温情の裕かな夏目さん」
・・・そして、自分は珍しい支那鉢に植えられて、一段高い、だんの上に載せられていたのでした。 夜になると、風は吹いたけれど、あのむちを振り、ひづめを鳴らして過ぎるようなあらしではありませんでした。星の光は急に、遠くなって、また銀河の色は、見える・・・ 小川未明 「しんぱくの話」
・・・ しかし、いくら呼んでも、この子供の声は、下の村へは達しなかったでありましょう。 このとき、どこからか、笛と太鼓の音がきこえてきました。それは、村の祭りのときにしかきかなかったものです。山の林に鳴く、もずや、ひよどりでさえ、こんない・・・ 小川未明 「谷にうたう女」
・・・「病気も何もありゃしないのさ。いつもの通り晩に一口飲んで、いい機嫌になって鼻唄か何かで湯へ出かけると、じき湯屋の上さんが飛んで来て、お前さんとこの阿父さんがこれこれだと言うから、びっくらして行って見ると、阿父さんは湯槽に捉まったままもう・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・が、むこう見ずはもともと私にとっては生れつきの気性らしかったし、それに、大阪から東京まで何里あるかも判らぬその道も、文子に会いに行くのだと思えば遠い気もしなかった、……とはいうものの、せめて汽車賃の算段がついてからという考えも、もちろん泛ば・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・それが年ごろになっても止まぬので、無口な父親もさすがに冷えるぜエと、たしなめたが、聴かなんだ。 蝸牛を掌にのせ、腕を這わせ、肩から胸へ、じめじめとした感触を愉しんだ。 また、銭湯で水を浴びるのを好んだ。湯気のふきでている裸にざあッと・・・ 織田作之助 「雨」
・・・それ以上女の体に近づけない豹一を品子は狂わしくあわれんだが、しかし、豹一は遠くで鳴っている支那そば屋のチャルメラの音に思いがけず母親の想出にそそられて、歪んだ顔で品子に抗った。 運転手に虐待されても相変らず働いていたのは品子をものにした・・・ 織田作之助 「雨」
・・・この細君が後年息を引き取る時、亭主の坂田に「あんたも将棋指しなら、あんまり阿呆な将棋さしなはんなや」と言い残した。「よっしゃ、判った」と坂田は発奮して、関根名人を指込むくらいの将棋指しになり、大阪名人を自称したが、この名人自称問題がもつれて・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・ 客が足を洗ッてしまッて、まだふききらぬうち、主人は、『七番へご案内申しな!』 と怒鳴ッた。それぎりで客へは何の挨拶もしない、その後ろ姿を見送りもしなかった。真っ黒な猫が厨房の方から来て、そッと主人の高い膝の上にはい上がって丸く・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
出典:青空文庫